当ブログで何回も書いてきたことですが、地球上での人間の生存環境の未来ということを考えて、ずっと自転車にしがみついてきました。自動車もモーターサイクルも好きではあるけれど、それは今の時代にやるべき『趣味』ではない、そう思って身を遠ざけてきた。
世の中を見て、今の自動車の使われ方は、きわめて底の浅い『便利さ追求』から用いられていると思う。
「その自動車、どうしてもいりますか?」
若者は「自動車を持つほどの裕福でない人の比率が増えるにしたがって、直観的に現代社会においては、自動車と言うのはコスト・パフォーマンスの悪いものだと気がつきつつある。だから、ドイツやイタリアですら、若者の自動車離れが起こっている。
自動車メーカーは、軽自動車のメーカー以外は、それを『映画的』『ゲーム的な高性能車』を投入することで市場が刺激できると考えているようだ。
私には『そういう自動車には自動車の持つ悪い側面がますます強調されてゆく』ように見え、ますますこころが離れて行く。
たぶん、乗り物というのは、たぶんに心理学的な考察対象になるものだと思う。『自分の身体能力を何百倍にする』、『それに乗れば、自分でこぐわけではないから、自分の身体能力以上の他者より速く走れる』、『富と社会的成功のわかりやすい目に見える形』であり、さらに男性の場合は『自動車というのは隠された性的な異性所有欲の対象である』と言う気がする。だから独裁者は高級車をたくさん集める。あれはハーレムの代償行為なんだろうなと思う。
『自動車に乗りこむ』というのは『母体回帰』の心理的な象徴の気がする。『もっと身体能力が優れた者に生まれたかった』と言う意識は、少しでも『性能の上の母体に回帰したい』と思うのではないか?
なぜこうしたことを考えると言うかと言えば、2輪車の人(モーターサイクルの人も自転車の人も)比較的、異性には淡泊で、執着しない人が多いというのが経験的にはっきりしているから。その話をある女性に話したら、彼女も思い当たるふしがあると言っていて、女性も自信がないときは、異常にハンドバッグとか小物にブランド品を持ちたくなるのだと言っていた。
その自動車のスピードと空間の感覚と言うのは、じつは私はきわめてエリアが狭いもののように思えるのだ。
人間は自分の生存範囲で、蜘蛛や昆虫が自分の周りに泡を持って移動するものがあるのと同様、ある種の人たちは、『人工環境の中だけを移動している』ということに意外と気が付いていない。
英国でM4を飛ばしていても、ドイツでアウトバーンを飛ばしていても、必ず『道路という人工のレールの上にいる』わけです。私はここに自転車やヨットと自動車を大きく隔てる決定的な差があると思う。
オーストラリアの毒蜘蛛やフウセン虫が自分の周りに「泡」を着るように、自動車と云うカラを付けて移動する。道路という人工環境の上を。
カヌーやヨットや自転車は必ずしも道路や運河を必要としない。
釣り舟やヨットで海へ出たことがある人はわかると思いますが、あれは『空に対する、海の表面に対する空間の感覚が変わる』。地球の上の小さな生物である自分を感じる。
ほんとうは、自転車や徒歩で多摩や武蔵野を歩けば、万葉集の昔に思いをはせ、さらに町田がわの自然の残る丘陵地帯をみると、かつては町田の方まで海が入りこんでいた時代のことまでこころは動く。だから町田の側にはサンショウウオがいなくて、日野から八王子にはサンショウウオがいた(ここ3年ばかりで姿を消しましたが)。
これからの季節、星が美しい。星を眺めれば、天の川が見え、それが銀河系の腕の一つにすぎないことを想い、その先に見える星雲のことを考える。太陽系の太陽の寿命は100億年と考えられている。もうすこしで太陽の寿命の半分だ。
自動車やらさまざまな工業活動により、数億年をかけて生成された化石燃料を100年かそこらで大量に空気中に放出する。『すげー加速だぜ』と言いながら、数万年、数億円の『時間のしずく』を使っている。
Youtubeで「Arab supercars in London」というのを検索してみると、じつに「虚しい遊び」という印象を受ける。エキゾースト・パイプから火を噴いて、あげく自分のクルマが燃えたりしている。
比較・対照のために以下のヴィデオもYoutubeで見ると面白いと思います。
NASA Video:Earth from Space Real footage
リアルタイムで今の地球の姿が見える。
How it works: the international Space Station
というのも面白い。宇宙ステーションというのはサンダーバード5号のジョンかアランの乗っているようなものではなく、とてつもなく狭く、ごちゃごちゃして、トイレで用をたすのもホースに吸い取ってもらうような具合。歯磨きをした後の水は『飲みこむ』(爆)。なんだかクリーニング屋の天井裏のような感じだだ。宇宙ロケットの中はニオイがひどいらしい。
興味深いのは『宇宙服』をスペースクラフト、一種の独立の宇宙ロケットとみなしていることで、いかに地上を離れると、人間は不自由かわかる。
宇宙では筋肉がみるみる衰えるので、スペースバイクなどというサドルのない、抵抗のかかるクランクを回すだけの運動器具が置かれている。
エベレストの上に登っても、すでに空気は薄く、宇宙から見ると地球の表面は『メッキをかけたように大気が薄い』のがわかる。太陽系ひろしと言えども、カエルだのバッタだのは地球にしかいない。いや地球上でも海の上や南極北極にはカエルやバッタはいない。チチカカ湖にカエルはいるが、ヒマラヤやエベレストにはいない。日本は本来、生物種の上でも、ものすごく豊かなところなのだ。
そう考えた時、この地表で美味い空気を吸って定められたコースなく気ままに自転車を乗れるということが、いかに素晴らしく豊かな人間の活動であるかがわかる。しかも、サドルの上からは地表の時間的過去のようすも思い浮かべることが出来、宇宙も眺めることが出来るのだ。それは最新のドイツ製超高級車のように自動車の天井に電気で星空がうつるような人工のものではない。そのまま宇宙の果てまでつながっている本物の空なのだ。