夏の休みのイメージが私のこども時代と今はずいぶん違う。まず、よく飽きもせず、虫を捕ったり、釣りをやったり、四手網で川でいろいろなものを捕まえていた。水遊びはけっこうやった。ドジョウ、ウナギ、ザリガニ、亀までさまざまなものがいて飽きなかった。
「川で砂金採り」は根気が続かないが、たまに亀やウナギがいるとなったら、四手網で一日中飽きずに川底をしゃくっていられる(笑)。
だいたいそういうところへは『こども用実用自転車』とでもいうべきロッド・ブレーキのもので行っていた。じつは、あれが幸福感の原点だったのかもしれない。児童館へ行くのも、プラモデル屋へゆくのも、隣り町探検に行くのも、常にロッドブレーキのこども車がお供だった。
学校があるときは行けない、うわさに聞く遠くにあるプラモデル屋へ見たことがないものを探しに出かけたり。そういうところはだいたい屋根裏があって、絶版の見たことがないような珍しいものを秘蔵していた。
たぶん、こども時代にそういうことをしていたのが、ヨーロッパで古本や骨董品を探して歩いたり、ロードスターでサイクリングをしていた『もとの骨組み』なのかもしれない。
あとは「ひょうたん棚」の下で昼寝をして、夜はカブトムシ、クワガタを採りにゆき、ものすごく暑いとプールへ行った。8月の25日より前に宿題に手をつける奴はどうかしている、と考えていた(笑)。
勉強をした記憶があまりない。たまに教師の家に遊びに行ったりする。だいたい家で本を読んでいたりしていた。あとは絵の先生のところへ絵を描きに行ったり、そんな具合で夏が過ぎて行く。
もう少し歳が行くと、禅寺に泊まりに行ったり、高原の別荘へ自転車と本とを携えて夏中引きこもったりした。ベランダのデッキチェアで本を読んではまどろみ。暑い盛りを過ぎると自転車で走りに行く。近くの別荘に偶然、丸石のツーリング車を持っている人がいて、たまに表敬訪問した。エイショウのファンシー・カット・ラグがついていて、驚くべきはHuretのエンドが付いていた。もとはズベルトが付いていたのをアルビーに交換し、レジナのスーパーコルサのフリーを入れていた。その人はホイールを自分で組み直し、ノルマンディーの丸穴ラージのハブにカガのリムだった。タイヤは第一のオープンサイド。1960~1970年代初頭の少年たちにとっては最高の贅沢だった。
こう思い出してみても、『遊園地へ行く』ことと『観光地へ行くこと』はまったく入りこむ余地がない。
今では『死語』になりつつあるが、『避暑』に出かけていた。とは言うものの、昔の世田谷、杉並、練馬、武蔵野市、三鷹市あたりは田園生活をしている人も多かったので、避暑に出かけても、基本的なライフスタイルに大きな変化はなかった。
いまだにはっきりと覚えていることは、八ヶ岳のエリアで、関西の人に夏休みに会うことは1976年頃までほぼまったくなかったこと。たぶん、1976~78年頃に自動車と高速道路の変化によって、ひとびとの行動範囲が大きく変わったのだろうと思う。
その頃から、長野県の多くの場所が、避暑地から観光地・リゾートへと変身し始め、堀辰雄や梅崎春生の世界のように読書と散歩で自然の中にいて、たまにひなびた村へ降りて蕎麦という具合ではなくなった。私もあまり行かなくなり、80年代、90年代の夏はほとんどヨーロッパにいた。
私には、高速道路の大渋滞の中にクルマで辛抱するのと、ネズミ―ランドの乗り物のために行列するのは本質的に似たところがあると思っている。
いま、マルセル・パニョールの映画「マルセルの夏」などを見ると、ヨーロッパも日本も1968年ぐらいまでは日本と夏休みは似ていた感じがする。
私は府中から西、「ひのたまはちおうじ」から道志ぐらいまでの山林はこれ以上壊してはいけないと思っている。関東で行くところがなくなりますから。長野県はずいぶん荒れたと思う。蓼科と日野・多摩を較べて、もはやほとんど差はない。むしろ日野・多摩のあたりのほうがしっくりくる。
唯一、武蔵野で、あまり見かけない昔はあって、今は出来ないものは、鬱蒼としたひょうたんとヘチマの棚の下で縁台で昼寝。これはヨーロッパへ逃げても出来ない。