私のまわりで密かに邪気払いグッズがブーム。
こういうご時世ですから、『ライナスの毛布』のような効果はあるかもしれない(笑)。
最初は三脚蛙からはじまったのですが、信長公の蛙はサンショウウオのような感じで嫌味がなく、しかも背中にナナフシのこどものような幻獣まで乗っているのに、昨今のものの多くが「かなりえげつなく金にギラギラした感じなのはなぜか?」ということから、『文人趣味の銅の匂いがしない(これは古来、銭は銅が多かったので、銅臭いというのは、金にギラギラした感じを言う)、品の良い蛙が欲しい』ということからはじまった。
ニセ信長計画(笑)。このあいだ窯変天目茶碗の偽物を3000円で買った(爆)。
自転車に乗っての徘徊は、車輪を転がして『ダウジング』しているようなものなので、邪気を払う勾玉が欲しいな、ということで徐々に広まった。
勾玉は難しい。あれほど単純なカタチなのに、それを作った『時代の手』が感じられてしまう。
ほんとうに古いものを数見て、今のものを見ると、別物に見える。
古いものはカブトムシの芋虫というか、なんとなく生き物を感じる。翡翠の中のヒビや脈理がなんだか芋虫の血管のようにも見える。
歴史的に古いものは白いものが多く、白い翡翠などが多いのが、やがて緑色の翡翠になって、仏教伝来後のものは水晶が多くなる。古いものは白いものや灰色が多いというのは、やはり『芋虫的なもの』がふくまれているのではないかと私は考えている。
水晶の古いものは副葬品とかかそーにした時に一緒に焼かれたという記述を考古学の書物に発見して、私は手を出さない。
あとは直観。「この石は良いパワーをくれるな」というものを買った。
不思議なもので、世界中で石は魔除けのパワーと結びついているが、また別の反面、持ち主を不幸にした宝石の話もまた多い。
石には私は不思議な経験がたくさんある。
昔たいそう金に困っていた時期があって、ルオーやピカソ、ミロの絵を売りに行ったことがあった。貧相に見えないようにちゃんとした服装で、普段はしないタイピンまでして行った。なんとか絵が売れて一段落して、表へ出てふとタイピンを見たら、誕生石がなくなっていて、金の土台だけが残っていた。
似たような話は作家の円地文子にもある。彼女がなくなる3か月前に指から話したことのない翡翠の指輪が真っ二つに割れたというのを読んだ。
そういうのは『身代わり不動』などと言われるお守りが2つに割れる話でもよく聞く。
昔、イスファハンで骨董屋の親爺と仲良くなった時のこと、
「まずはお茶を飲んで友達になって、それから商売の話をする。これがイスファハン流ですな。」
とその親爺は言った。20回はゆうに通ったと思う。さまざまな話、政治の話、国外での状況の話、骨董の話、いろいろした。
ある時、彼は奥の引き出しを引き抜いて私に見せると、
「これは参考と勉強のためにお見せしますが、よく見ておきなさい。」
そう言って彼は宝石をいくつかに分類して見せた。
「これはものすごく良いもの、これはまあまあのもの。こっちはどこにでもあるありふれた普通のものです。おわかりか?」
これは現物教育でよくわかった。
さらに彼は、そのものすごく良い石というのをさらにいくつかの山に別けた。
「この石はパワーがある。この石は疲れている。これはずばぬけて力がある。持ち主を幸福にする石だ。」
と説明された。う~~~~む。
その親爺さんユダヤの人で、イスファハンには大昔、ディアスポラの時に歩いて逃げてきた人たちの末裔がたくさん住んでいる。彼の銭箱にもダビデの星は刻まれていて、『家紋だ』という絵には象に羽が生えている不思議な絵がかけてあった。
彼は『日本製の良いナイフが欲しい』とかいろいろ言われてお土産にものをあげていた。
彼はそのずばぬけて力があるという山の中から2粒くれた。
「ひとつは貴方がお持ちなさい。他人にあげてはいけません。もうひとつは将来貴方が結婚する時、奥様におあげなさい。確定するまであげてはいけませんよ。」
そう言われた。
その彼はさらに不思議なことを言った。
「こういう石は不思議なことに力を集めるのです。私はユダヤ人だが、伊須羅武教徒たちもそのことを知っている。だから彼らを見てご覧なさい、礼拝に行くときは力をもらって溜めてくるために、小指に宝石をはめている。古代エジプトでも石はそう云う力を持っていると考えられていた。こういう言う石はそういう聖なる場所へ行くとパワーを電池のように貯めるものなのです。」
ホントかいなと思いましたが、妙に説得力があった。銀化したガラスの小瓶があり、メソポタミア時代の青銅で出来た小さい牛なんかがバケツの中にジャラジャラ入っている店で言われると信じざるおえなかった(笑)。
仁さんはクリスチャンだったから、アナタどう思うかとその話をしたことがある。
「そりゃまた、もっともらしいというか、、、R&Fさんともあろうひとがまんまとのせられたんですよっ。『イワシの頭も信心から』って言うじゃない。んなわけねぇよ。なんでそこにパワーがたまるのか説明つかないでしょ。」
私は『不確実性の時代がさらに深まった現代』で、ライナスの毛布状態で「まがたま」に思いをかけ、『日にさらし、月光にさらし』、神社や寺に持って行きパワーチャージをはかっている(爆)。
「イワシの頭」と言い始めたら、世の中のけっこうな数のものがじつはイワシの頭なのかもしれない。
しかし、まがたまの神秘的な色や、雑念を払って自然の嫌味のないカタチに近づこうとした造形は、なぜかこころの雑音を取り除いて澄んだ状態にしてくれる気がするのである。
こういうご時世ですから、『ライナスの毛布』のような効果はあるかもしれない(笑)。
最初は三脚蛙からはじまったのですが、信長公の蛙はサンショウウオのような感じで嫌味がなく、しかも背中にナナフシのこどものような幻獣まで乗っているのに、昨今のものの多くが「かなりえげつなく金にギラギラした感じなのはなぜか?」ということから、『文人趣味の銅の匂いがしない(これは古来、銭は銅が多かったので、銅臭いというのは、金にギラギラした感じを言う)、品の良い蛙が欲しい』ということからはじまった。
ニセ信長計画(笑)。このあいだ窯変天目茶碗の偽物を3000円で買った(爆)。
自転車に乗っての徘徊は、車輪を転がして『ダウジング』しているようなものなので、邪気を払う勾玉が欲しいな、ということで徐々に広まった。
勾玉は難しい。あれほど単純なカタチなのに、それを作った『時代の手』が感じられてしまう。
ほんとうに古いものを数見て、今のものを見ると、別物に見える。
古いものはカブトムシの芋虫というか、なんとなく生き物を感じる。翡翠の中のヒビや脈理がなんだか芋虫の血管のようにも見える。
歴史的に古いものは白いものが多く、白い翡翠などが多いのが、やがて緑色の翡翠になって、仏教伝来後のものは水晶が多くなる。古いものは白いものや灰色が多いというのは、やはり『芋虫的なもの』がふくまれているのではないかと私は考えている。
水晶の古いものは副葬品とかかそーにした時に一緒に焼かれたという記述を考古学の書物に発見して、私は手を出さない。
あとは直観。「この石は良いパワーをくれるな」というものを買った。
不思議なもので、世界中で石は魔除けのパワーと結びついているが、また別の反面、持ち主を不幸にした宝石の話もまた多い。
石には私は不思議な経験がたくさんある。
昔たいそう金に困っていた時期があって、ルオーやピカソ、ミロの絵を売りに行ったことがあった。貧相に見えないようにちゃんとした服装で、普段はしないタイピンまでして行った。なんとか絵が売れて一段落して、表へ出てふとタイピンを見たら、誕生石がなくなっていて、金の土台だけが残っていた。
似たような話は作家の円地文子にもある。彼女がなくなる3か月前に指から話したことのない翡翠の指輪が真っ二つに割れたというのを読んだ。
そういうのは『身代わり不動』などと言われるお守りが2つに割れる話でもよく聞く。
昔、イスファハンで骨董屋の親爺と仲良くなった時のこと、
「まずはお茶を飲んで友達になって、それから商売の話をする。これがイスファハン流ですな。」
とその親爺は言った。20回はゆうに通ったと思う。さまざまな話、政治の話、国外での状況の話、骨董の話、いろいろした。
ある時、彼は奥の引き出しを引き抜いて私に見せると、
「これは参考と勉強のためにお見せしますが、よく見ておきなさい。」
そう言って彼は宝石をいくつかに分類して見せた。
「これはものすごく良いもの、これはまあまあのもの。こっちはどこにでもあるありふれた普通のものです。おわかりか?」
これは現物教育でよくわかった。
さらに彼は、そのものすごく良い石というのをさらにいくつかの山に別けた。
「この石はパワーがある。この石は疲れている。これはずばぬけて力がある。持ち主を幸福にする石だ。」
と説明された。う~~~~む。
その親爺さんユダヤの人で、イスファハンには大昔、ディアスポラの時に歩いて逃げてきた人たちの末裔がたくさん住んでいる。彼の銭箱にもダビデの星は刻まれていて、『家紋だ』という絵には象に羽が生えている不思議な絵がかけてあった。
彼は『日本製の良いナイフが欲しい』とかいろいろ言われてお土産にものをあげていた。
彼はそのずばぬけて力があるという山の中から2粒くれた。
「ひとつは貴方がお持ちなさい。他人にあげてはいけません。もうひとつは将来貴方が結婚する時、奥様におあげなさい。確定するまであげてはいけませんよ。」
そう言われた。
その彼はさらに不思議なことを言った。
「こういう石は不思議なことに力を集めるのです。私はユダヤ人だが、伊須羅武教徒たちもそのことを知っている。だから彼らを見てご覧なさい、礼拝に行くときは力をもらって溜めてくるために、小指に宝石をはめている。古代エジプトでも石はそう云う力を持っていると考えられていた。こういう言う石はそういう聖なる場所へ行くとパワーを電池のように貯めるものなのです。」
ホントかいなと思いましたが、妙に説得力があった。銀化したガラスの小瓶があり、メソポタミア時代の青銅で出来た小さい牛なんかがバケツの中にジャラジャラ入っている店で言われると信じざるおえなかった(笑)。
仁さんはクリスチャンだったから、アナタどう思うかとその話をしたことがある。
「そりゃまた、もっともらしいというか、、、R&Fさんともあろうひとがまんまとのせられたんですよっ。『イワシの頭も信心から』って言うじゃない。んなわけねぇよ。なんでそこにパワーがたまるのか説明つかないでしょ。」
私は『不確実性の時代がさらに深まった現代』で、ライナスの毛布状態で「まがたま」に思いをかけ、『日にさらし、月光にさらし』、神社や寺に持って行きパワーチャージをはかっている(爆)。
「イワシの頭」と言い始めたら、世の中のけっこうな数のものがじつはイワシの頭なのかもしれない。
しかし、まがたまの神秘的な色や、雑念を払って自然の嫌味のないカタチに近づこうとした造形は、なぜかこころの雑音を取り除いて澄んだ状態にしてくれる気がするのである。