このあいだの出張では、『いやな珈琲』というのには出くわさなかった。すべてするする飲めて、美味いと思いました。実際の話、前を通れば香りで察しはつく。
東京ではしめぎさんが生きていた頃はもかへよく行った。お客が飲み残すとどこがいけなかったか尋ねるために店の外まで出て行くほど熱心な方でした。青蛾で修行していたHさんは美味い珈琲を出し、一切そのそぶりも見せない。Hさんも昨年引退されたのが残念だ。
あの2人にかなう焙煎の人は私は会ったことがない。
英国ではサウケッラのところへよく行っていた。彼も自ら焙煎からやり、4時になると娘に店をまかせ、パリっとしたイタリアのスーツに伊達な帽子をかぶり、どこかへ遊びに行くのが日課だった。店はずいぶん汚かったが、大繁盛で、彼はコートダジュールにホテルを買い、そのカフェもなくなった。
ウィーンのカフェは雰囲気で行く。ハヴェルカによく行っていた。東京の今は絶滅した大正~昭和の西洋文化輸入のさきがけ『第一書房』の文化のもとで生まれた喫茶にものすごく近い。それは『文化のハブ』だから味は記憶に残らなくてもよい。
ルイジの店は朝5時から開いていた。朝帰りが一杯気付けに飲んでゆくのだか、出がけに一杯なのか。
そういう中で、モーニングセットになる日本の喫茶店というのは、確実に一つの世界だと思う。
それが嫌味なく、ただ苦いだけでなく、苦味の中に適度な甘みと酸味があって、珈琲本来の良い香りがたっていれば、最近の私は細かいことはごちゃごちゃ言わない。
Hさんが、「炒るわけですよ、深い香りと甘さと香ばしさを引き出すために、珈琲豆の燻製を作るわけじゃないんです」と言っていた。最近は北米の影響か、炭のように苦いだけになった、焦げた煙臭いものを本格だと勘違いしているところが増えた気がする。
京都の喫茶店では今回は妙にほっとしました。ずいぶん2杯目のおかわりをした。