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Channel: 英国式自転車生活
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音環境

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私はいまだに鮮明に覚えているのですが、今から数十年前、英国へ初上陸した時、『ああ、音世界がまったく違う』ということでした。

教会の塔の上に登る、あるいは道路に面した建物の最上階の窓を開ける。そうすると道路を走っている自転車が石畳で揺すられる音が聞こえた。

『日本のように聴くことを強制される音楽は一切なかった』。

パブでも音楽はなく、ティーショップでも音楽はなかった。レストランでも音楽はなく、書店でもなにもかかっていない。それがたいそうすがすがしかったのを覚えている。

日本では書店でもレストランでも喫茶店でも、ありとあらゆるところで「チープな音楽が流れている」。

それも生の音楽ではなく、スピーカーから流れる『造花のような音楽』。

教会の礼拝でもヨーロッパでは音楽は生演奏ですから、彼らには『造花音楽』、『摸造音楽』には強い拒否反応がある。店内で音楽を流しているのはアメリカのフランチャイズのファーストフードの店でした。

日本では最近、『のべつ音楽が流されている』。それでも足りずに耳にイヤフォーンを差して歩いていたり、ジョギングをしていたり。

たとえて言うなら、これは『牛のように切れ目なく口を動かして、ジャンクフードを食べるのを、音世界でやっている』のに近い気がする。

これは絶対に、人々の感性を鈍らせ、ある種の出来の悪い音楽にも平気な、『ぶ厚い皮膚におおわれた鈍い感受性をつくる』と私は思う。

私はもうずいぶんテレビを見ない日々が続いている。ラジオもニュースの時間以外はうるさいのでかけない。このあいだ深夜のラジオで、ヨーロッパでは50歳以上ではラジオを聴いている人の割合は、60~70%なのに、日本では20%を割るという調査結果をやっていた。

私がラジオを聞かない第一の理由は『うるさいから』。第二の理由が『話が面白くなくがさつだから』。第三の理由が『かかっている音楽が良い趣味のフルイを抜けていないから』。そんなところか。

何を聴いているかと言うと、インターネットでBBCを聴いていたりする。

これはおかしな話で、視聴料を払っている自国のテレビラジオがつまらなく、わざわざ海外の局を聴いているというのも歪んだ話だ。

また、かけている音響機材もどうしようもないものがほとんど。いかんともしがたい摸造音楽をダメな機械からのべつ流している。『鈍くなるだけ』だろう。

そういう状況が数世代続いたら、たぶん「聴きなれないものへ刺激を求めて、破壊的なものへと行き着くだろう」と言う気がする。これは映画の映像などではアメリカですでにそういうことになっている。

ここ15年ぐらいのことですが、ヨーロッパのある種のクラッシック音楽を聴くと、背景に緑の自然が広がっている感じがする。なんとも言葉にしづらいのですが、『深い自然の緑の中だからこの音楽で良い』という感じでしょうか。

風にゆらぐ木の葉の音と鳥のさえづりの世界だから、このおだやかな曲調でよいというのか。

昨日の夜はじつは蓄音機を聴いていた。E.M.G.のナンバー9という名機。パブロ・カザルスの弾くバッハの無伴奏チェロ組曲。蓄音機は「針」をレコード1枚ごとに交換するわけですが、それでも版は200回を待たずして擦り減ってしまう。一回ごとが貴重なわけです。その針は大きい音にしたり、小さく柔らかい音にしたり、針を変えることで調整できる。

今日のは、だいたい本物のチェロを至近距離の前にしての2分の1~5分の2ぐらいの音量でした。

後半、ビり―・ホリディの「貴方の仕返し」とかサッチモの「セ・シ・ボン」などでは、不思議な『1分の1』の感じがあった。ほんとうに、厚さ20cmぐらいの「飴色の時間の霧」の向こうに、生身の人間が存在している感じ。

「すごく日本的な光景だな」と思ったのは、チェロ組曲の途中で『ハイフェッツはまだですか?」と訊いた方があったこと。組曲を途中で飽きる、あるいは辞める、ということに何の抵抗も持たないらしい。こういうことはヨーロッパでは考えられない。しかも、カザルスの歴史的名演奏です。

じつは今週、仕事の帰りに喫茶店へ入ったら、クラシックの有線が鳴っていた。そこで「ああ、バッハのフランス組曲の5番だ、久しぶりだな」と思っていたら、途中で突如ヴイバルディの『海の嵐』に変わった。これが映画なら、ラストを放送せずに、放映を打ち切るようなものだ。

いわば、小説の『部分を拾い読み』して、次から次へ本を取り換えているようなもので、結局のところなにも読んでいない。「to be or not to be」は知っていても、道化のヨリックやフォーチンブラスのことは何も知らない。

しかし、昨日のSPレコードを聴いたときには『多幸感』ありました。

偶然とは恐ろしいもので、その蓄音機のオーナーが『次のレコードは、私が蓄音機を買うきっかけになったレコードです』、と言った。キャサリン・フェリアーのレコードでした。じつは私が住んでいた英国の家には、かつてグリーグが持っていたジョン・ブロードウッドのピアノがあり、そのピアノが気に入ってベンジャミン・ブリッテンがよく弾きに来ていた家でした。そのベンが(主は『ベン』と呼んでいた)キャサリン・フェリアーをよく連れてきていたという話。会うべくして人は会う気がする。

ベンジャミン・ブリッテンはバルトークなどと同様、民謡を取材していました。そこでアイルランドの民謡をキャサリーン・フェリアーが歌っているものをおすすめしておきます。

* Katheleen Ferrier-Down by the Sally Garden

バッハの話が出ましたので、今週の週末のおすすめは以下の曲です。

*Michala Petri and Lars Hannibal play Bach

彼女は私の若いころ『神童』と呼ばれていた。デンマークの人です。現代ではこういう人は絶無だと思う。

あと、フランス組曲を数日前探していて、私の敬愛するジョージ・マルコムのイタリアン・コンチェルトがYoutubeにアップされていた。

*Bach/George Malcolm, 1952.ITALIAN CONCERTO, BWV971 Original 10"

で出ます。同じ1952年に同じ曲をグレン・グールドも弾いている。

* Glen Gould plays Bach "Concerto in Italian style BWV971 (1952)

私は両者を聴いてマルコムに共鳴した。以来、どうもグールドは『人が評価する理由はわかるけれど、しっくりこない』のです。1952年の両者を聴き比べ貴方ならどちらをとるだろうか?

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