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Channel: 英国式自転車生活
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タイムスリップ

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昨日、夕暮れ時、天神さまの境内を抜けていたとき、ふと、昔、菅原道真公の息子が(府中にあった武蔵の国の国府で官吏として働いていた)が、はるか九州での父の不遇の死を聞いて木像を刻み、天神島に一堂を建て、その田圃のなかの小さい島のようのなところから現在の崖下に、夢のお告げによって社を移したことをふと思い出した。

私はいつもそこの境内には裏から自転車を押して入る。古代甲州街道は崖下にあり、かつては弁天池から流れてくる清流で手を洗い、そこを渡って境内に入ったことが知られている。

昔からあったような石橋は見当たらない。大古には小川を渡ることでみそぎをしたか、あるいは私がいつも自転車を押して渡る80cmぐらいの石の板が代々架け替えられてきたのかもしれない。

なんとなく、「昔の地形のまま」の感じがするのがこころがやすらぐ。

一仕事を終えてから向かったので、鶏たちはもう樹の枝の上で眠り始めていた。

鶏のまどろみの声も、樹々のたそがれて行くさまも、昔そのまま。ちょっとこころのチューニングを合わせてみると、創建当時のころにタイムスリップできる。

夢のお告げのままにここへ社を移したとき、孝行息子は達成感があったに違いない。

いまから40年ほど前に自分がスクラップしたノートを見ていたら、深大寺のまわりは鬱蒼とした杉林だったという資料を見つけた。その最後の2本が山門の両脇に残っていたものの、立派なほうが枯れて切り倒したときの記事が貼ってあった。残った1本のほうは古木ではない。100年ほどの若い樹。つまり深山幽谷の感じの杉の巨木の森がその1本を最後に消えた。1976年11月26日の記事。つまり深山幽谷時代にタイムスリップするのがきわめて難しい場所になってしまったわけです。

日本では古い建築や場所は神社仏閣しか残らない傾向がある。都心では緑もそうだ。東京で遠くから林をみつけて近づくと、だいたいがお寺か神社。

タイムスリップできる場所はほとんどなくなっている。「経済的に成功しているお寺は電気式スピーカーを使う傾向がある」ようにも思う。タイムスリップして過去を偲ぶのは難しい。中東もそうです。礼拝の前のアザーンなどは電気スピーカーで、日本の学校の下校放送のような音で流している。英国やイタリアだと考えられない。

フィレンツエのサンタ・マリア・デル・フィオーレに日曜日に行ったとき、説教の声はほとんど聞こえなかった。サヴォナローラの声をボッティチェリはどうやって聞き分けたのだろう?と思った。

私が日常の器などに古物を好むのは、「昔の人と同じものを前にして感じるタイムスリップ感」を楽しむということがある。これはある意味、昔から連綿とつながってきている流れの中に身を浸して、自分を確認したいという欲求のためだと思う。

いま、この瞬間だけで、過去とつながりも永続性・継続性もない世界に刹那的に生きるのは足が地についていない感じがする。

過去をかえりみずに、未来は予測できるのか?過去を見ずして今も見えなくなりはしないか?

私が20歳の時、30歳の時の自分、40歳の時の自分は正確なイメージがなかった。現実、まったく思いもかけぬ自分になっていた。現在の自分も10代の自分が見たら、あまりの予想違いに驚くに違いない。

未来のことはよくわからない。

だから、私は過去の安心できるもののうえに、徐々に、吟味した新しいものを積み上げてゆく生活を好む。場合によっては「新しい部分をすべて崩してしまう」くらいの覚悟がいると思う。

昨日出た週刊現代に、隣の国が最近の日本のやり方をコピーして、新幹線とゲンパツをセットにして外貨を稼ごうとしていて、原発ラッシュだそうである。どれか一つか二つ事故を起こせば、PM2.5どころではないものがやってくる。そうしたら、日本の農業も漁業も観光産業もすべて終了でしょう。土地も金を産まなくなる。チェルノブイリの事故の時、遠く離れたアイルランドでもマトンや牛肉が基準値越えで廃棄処分したのを私は覚えている。

「我々はそういうことをやってもいいし、デカい車も乗る。だが、君たちは技術がないからやるな」とは言えない。ほんとうは、それほどのリスクのある、自分たちで責任をとれないようなエネルギーの使い方の権利はないはず。

これもまた、長い時間軸に身を置いて、文明の中でいま我々がどういうところにいるのかが見えていない、『経済病という刹那主義』でしょう。

私が自転車派にとどまり、エンジン付きのものの趣味にゆかない理由のひとつは、Ethicalな立場にいたいからです。
「私は1時間に2リッターペットボトル数万本分もの空気を汚染していない」
と言えば済む。

いまのこの国の「刹那的な、通時性のなさ」は深刻な感じがする。くにたち駅から府中病院のほうへ向かう道にそったビルのいくつかが空きビルになっていましたが、昔は何が入っていた建物か思い出せない。

気が付けば、駅前はどこも全国チェーンのフランチャイズと銀行と携帯電話屋ばかり。どんどんなし崩しに「町の記憶」も「自然の記憶」も「都市の記憶」も消えてゆく。

今しかない世界で、今がダメだったらおしまいでしょう。過去の土台もないのだから。永続性のある新しいものは建たない。『常に手探りのゼロ』からのやっつけ仕事になる。どんな未来が来るかわからずやっている。

日本全国、どこへいっても同じような店とコンビニしかないということは、日本全国、どこの林の樹を見ても数種類の同じ昆虫しかいなくて、元の自然の面影がないようなものでしょう。

当然、そういう同じような『人工環境』のなかで、同じような仕事、同じようなネット情報を目にしていたら、似たような人ばかりになってくるだろう。人間も『単一昆虫化』のような個性になるのかもしれない(爆)。

帰りは学生街の喫茶店でカスタード・プディング。学生サイズで、オジサンにはちょっと大きすぎますが、ここのプディングは焦げ方がいい。キャラメル・シロップにかすかにコアントローが隠し味で入っています。こういうのは最近のフランチャイズの店にはない。じつにレトロな味。これもひとつのタイムスリップ。変わらない同じ場所へ行くのは自分の変化を知ることでもある。

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