よく「趣味が良い」とか「趣味が悪い」とか言いますが、最近、「この趣味というものが干上がっている」ように見える。
ティーカップがいくつかあれば、持ちやすいとか持ちにくいとかいうことがあって、量がこれでは少なすぎるとか多すぎると言うことがあり、ふちの口当たりが良いとかダメだということがある。
それでもものすごく美しければ、多少の使いづらさには目をつぶるかもしれない。
使ってよければ美しくなくてもかまわない、というのは趣味がない。
水道が出来る前は江戸では上水を使っていた。便利だけれども長い距離「かけい」のような「とい」のようなものの中を流れてくるので味は良くなかった。一年に一回掃除をする手間があり、くみあげる手間はあったが、良い味の水を求める江戸っ子は井戸を大事にした。
これは水の味がわかるということでしょう。
『水の味なんかどうでもいい』というところに、お茶や珈琲の趣味は成立しない。
この水の方がお茶が美味くはいるということで水を選び、この鉄瓶でお湯を沸かすと甘い感じになるが、こっちの鉄瓶で沸かすと生臭い感じになる、、と鉄瓶を選ぶ。
さらに目を楽しませるものとして美しいものを選ぶ。
私の中で、趣味と言うのは『総合的なもの』で、感覚を澄ませたところのものだと思う。
その意味、『自転車なんかなんでも大差はない』というのは、鉄管臭い赤水やカビ臭い水でお茶を飲んでいても平気というのと、私は同じレベルと考えている。
使いにくいティーカップは引っ越しの時に捨てて行くかもしれない。愛着がわかないでしょうから。『どこの喫茶店で出てくるカップより私はこれが気に入っている」というなら、どこへ引っ越そうと持ってゆくはず。つまり『趣味のない世界に生きている人は、愛着も愛情もない世界に生きている』といえるのではないか?
最近、駐輪場で自転車にひどい傷をつけられることが多い。それは、まわりに駐輪する人たちが、自分の自転車に愛着を持っていないことと深く結びついている。駐車違反で持って行かれたら取りに行かなくても良いくらいに考えている。油も差さない。ダメになったら買い替えればよいと言うスタンス。
自分の自転車が8700円だったから、隣りに駐輪してある自転車もそんなものだろうと考えるので、傷を付けてもなんら罪悪感がない。それが数十万、あるいは230万円するような自転車だとは、想像することも出来ないくらい趣味がない。隣に停まっている自転車は美しいな、とかずいぶん大切に乗っているな、かけがえのないものなんだろうなと気が付く感性もない。
これはたぶん、『日本の大量生産、大量消費が生み出した現代病』なのだろう。隣の自転車のトップチューブをガリガリ傷つけても平気な神経が、学生に国宝の寺に名前を落書きさせる。
愛着も愛情もない世界に生きているわけですから、歴史の生き証人である場所や物に対する尊敬も見識もない。たぶん、家の家具はすべて引っ越しのたびに捨てるカラーボックスと趣味のない食器に違いない。
趣味というのは感覚と見識のとぎすましの先にある。ふだんから粗雑な生活をしていて趣味が育つわけはない。
面白いたとえ。言語学では言葉の正確なニュアンスを探り出すのに、その単語をいろいろな文章に入れてみて、違和感があるものを探すことをやったりします。
「ジェット戦闘機を集めるのが趣味」
「爆撃機で爆弾を落とすのが趣味」
「携帯電話の新型を見に行くのが趣味」
「捨ててある空ビンの匂いを嗅ぐのが趣味」
「連休最期の大渋滞の中で自動車の中にいることが趣味」
どうもこういう文脈では『趣味』は成立しないらしい(笑)。
現代では、たぶん、スキーの板を集める趣味というのはなくなっている。もしくは絶滅危惧種でしょう。1970年代ならヒッコリーのケスレーの板とかありましたから、そういう趣味の人がいた。
自動車は「便利さの前にひざまづいて、趣味性が消えつつある」。やがてはマニュアル車を運転できる人が激減するだろう、修理が出来るメカニックも減る、自動運転などということも言われ始めているので、今の10代、20代が中年になるころには、いかな名車といえども、かなりな値崩れが来る気がする。
さて、自転車は?趣味のものとして命脈が続くだろうか?自転車はいまが分岐点だろうと言う気がする。