Quantcast
Channel: 英国式自転車生活
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3751

じわじわ来るカッコよさ

$
0
0





マダム・ダルオーだったと思いますが、『身なりの良い紳士は、英国かイタリアにかぎる』と言っていた。マダム・ダルオーはアメリカの大統領の服飾アドヴァイザーなどもやっていた(大統領夫人のアドヴァイザーだったか??)。

これはなかなか興味深い一言だと思う。フランスにも伊達男はいますが、紳士というのとはちょっとずれる感じがする。粋なんだけれども英語でいう「rakish」というか、ちょっと崩した非主流の感じがする。

スペインはフランスよりさらに野性的な感じがして、スペインから旧スペイン領へ行くと、その野生味が泥臭くなってくる。

ドイツはまた独特で、かつてミュンヒェンである貴族の息子と食事に出た時、「これが正装だ」とスコットランドの民族衣装のドイツ版のような、派手なチョッキに半ズボンといういで立ちで来たので、ちょっとびっくりした。「山岳民族の服」という感じで、ズボンつりまでしていた。

日本の紋付き袴がいかに世界的に見て格調が高いか、その時あらためて深く感じ入った。

この英国とイタリア。なかなか面白い対比をなしている。

ファッションもそうですが、自動車の世界でも興味深い対比を作っていると思う。なぜか英国はけっこう伝統的にイタリアのカロッツエリアにボディを頼んでいた。それから半世紀ほど経って、英国の自国製のボディとイタリアのボディとを見較べてみると、純英国のボディが決してイタリアのものに見劣りせず、英国のもののほうが「時代の古び」が付いていなかったりする。疑う人は2ドアのRタイプ・ベントレー・フライングスパーのマリナー・パークウォード製とピニンファリーナ製を較べてみるとよい。ピニンファリーナのほうは現代の眼で見ると、やや丸っこく、ちょっとアメリカ車的な印象が含まれている。

その話をかつて仁さんが工房を引っ越しするときに話したことがある。彼は自転車のデザインのヒントを得るのに、ヨーロッパの自動車の切り抜きを糊でノートに貼ったものを持っていた。それが引っ越しの時に出てきて、イタリアのデザインの話になった。彼はイタリア礼賛者でしたが、
「いや~、イタリアのものはカッコいいねぇ。R&Fさんは英国派だからそうは思わないかもしれないけど。」
「いや、そんなことはないよ。イタリアの良さは認めますよ。」
「イタリアのものは、すぐカッコイイって思うよ。英国のはすぐわかんないよ。」
「それだけ奥が深いんじゃないかな。」
「イタリアのクルマなんか小学生でも『アッ、カッコイイ』ってすぐいいますよ。だけど英国のMGやらベントレーやらってのは『勉強しないとよさがわからねぇ』ようなとこがあってさ、小学生にベントレーの良いやつ見せても、きっと何も言わないよ。」
「だけど、女性は英国車好きだね。イタリア車は女性でもかなり男性的な人が好むんじゃないかな。イタリア車っていうのは、アメリカのスポーツカーなどと同様、女性は親しみを感じないようなところがあると思うな。」

私はイタリアのものは「美学のベクトルが同じような方向へそろって向いている気がする」。先日、旧車の集まりでデ・トマソがいて、一緒に行ったクルマ好きが誰も車名がわからなかった。フェルッチオ・ランボルギーニを崇拝する人も「ランボルギーニかな??」とかいう具合でした。

かつて、ロータスがエスプリの試作車を完成させた時、すべてのバッジを外し、メーターのなかの文字からステアリングホイールのバッジまですべてを消して、どこのクルマかわからなくして、昼飯時に人がわさわさ出てくる時に、007の撮影場所だったパインウッド・スタジオの表に停めておいた。誰もメーカーがわからず大騒ぎになり、「あれがどこのクルマかつきとめろ」という話になり、ロジャー・ムーアが乗ることになった。

今見ると、車高の低さ以外は、じつにある意味、おとなしいあたりまえのカタチをしているように見える(右から2番目、イタリアのジウジアーロのボディデザイン)。私は「あまりにわかりやすすぎる」と感じて、デビューした時からあまり関心がなかった。実際、すぐあとに、トヨタがじつに『現世利益的』な感じでこれの延長線上に見えるものを作った。

これはたとえば、ビッザリーニのバッジとマークをすべて外したのと、マセラーティのヴイニャーレのボディのすべてのバッジを外したものと、2台並べて停めておいたら、誰もメーカーを当てられないだろうと思う。

これは1960年代から1990年までのイタリアの自転車にも同じようなことが言えるだろうと思う。部品に施した肉抜き穴とフォーククラウン以外はほとんどシルエットは同じなのではないか?エンドも寸法もほぼ同じ、コンポもオールカンパだし。

前回の東京オリンピックの時の優勝車両はイタリアの『ステラ・ベネッタ』という自転車ですが、オールカンパだし、写真で見る限り、ボックスクラウンのチネッリと見分けが付かない。

英国勢はカールトン、コンドル、クロードバトラー、ベイツ、全部はっきりわかる。驚くべきことに、あの1960年代の東京オリンピックに、英国選手が1928年頃のチェイタ・リーのスチール・クランクを使っていたこと。英国は『時代に関わらず良いと思うものを引っ張ってくる。ことさら新しいものをどうしてもやろうとは思わない』。これはイタリア製のラバーブーツが入ったプカプカ動く『実にそれらしい未来的なブレーキ』や『イカの前期型』を使ってみて、「なにが未来だ!ききゃあしない!」と切れたことがある人は納得するだろうと思う。

すごい正直な「直球コース」の話をすると、私はミロのヴイ―ナスにこころ惹かれたことがない。「よさはわかるけどね~」で終了してしまう。ゲインズバラやレイノルズの肖像画は「スキあらば、家へ持って帰りたい」と思う。

いや、むしろ、ミロのヴイ―ナスとか、薄気味の悪いモナリザのポスターを家に貼っている人の気持ちがよくわからない。

かつて、アルベルト・ジャコメッティが
「ブランクーシの彫刻が錆びてしまったら、モンドリアンの絵画に染みが出来たら、それは同じ価値を持つ芸術作品なのだろうか?古代ギリシャの彫刻は、2つに割れたら2つの芸術作品になるのだ」
と語ったことがある。

英国でけっこうボディのやれた古い自動車をみかけました。私の住んでいた家のガレージにもまだF.H.ロイスが生きていた時代の『赤バッジ』時代のロイスがほこりまみれで入っていた。それでもなかなか威厳があっていいんです。サウスケンジントンにも塗装がかすっぱげてきている戦前のベイビィ・ロールスがよく走っていた。決して汚らしくない。

英国の革のものは使うほどに深い味が出てきますが、靴などでもスイスやイタリアのものには、英国のものほど修理が効かないものが多い。

夏にイタリアから来た設計者の仲間が、「買った時に一番綺麗で、だんだん汚くなってゆくだけという製品はこれからはダメなんじゃないか」と言っていた。まさにそうだと思う。

だんだんヤレてきて、味が付き、その人らしさがのりうつって来るというのが英国のものだろう。これは自動車や自転車でもそうです。私は英国からクルマを連れて帰って来る候補さがしに、ずいぶんP5とアルヴイスを見ましたが、一台づつ、ずいぶん違う気がした。その持ち主らしい味になっている。これがイタリアもののゾンダとかならそういうことはない。最初から最後まで、持ち主に関係なくその製品のメーカーのもの。誰のゾンダでも同じ。

たぶん、神社のように定期的に新しく建て直す文化、畳はいつも新しくという文化は、イタリア式と折り合いが良いのだろう。一方で使いこんで、その時代が入ってきたのを楽しむという英国式は、侘びさびの世界に近い。

今年、そのピニンファリーナがインドに身売りしましたが、ある意味『変奏曲の終わり』という感じがする。イタリアン・バイクはここ10年以上、すこしづつアメリカン・バイクやスペインなどの周辺国の自転車に押されている。その背景にある理由を考えてみると、消費行動の背後で、どういう耐久消費財のデザインが廃れ、どういう会社が伸びているか?興亡がみえる。私は世の中の耐久消費財はますますつまらなくなってゆくと思っていますが。

私は歳とともに「じわじわくる英国式」に惹かれている。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3751

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>