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Channel: 英国式自転車生活
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エドワード朝田園紳士

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私がはじめて自転車にのめりこんでから半世紀ほど経ちますが、そのあいだに、常に禅寺の石庭の石のようにころがっていたのが自転車の画家、フランク・パターソンでした。

彼の絵の世界が、ほぼ私の少年期、青年期を支配していたといってよい。

しかし、フランク・パターソンがいかなる人物だったか?というのは、全体像があきらかにわからないままに数十年が過ぎた。うすぼんやりと、彼は家具や建築、自動車のイラストも描いたこと、ロンドンのテンプル・プレスがおもな仕事の相手であったことぐらいでした。

1986年ぐらいのこと、奇しくも市場の骨董屋の「パトリシア」が(略称『パット』でパターソンも『パット』と呼ばれていた)隣の市のマーケットに自転車のプリントがたくさんあった、とリポートしてくれた。

考えてみると、私の英国での重要な自転車情報はすべて彼女がきっかけになっている。彼女は英国でのポールタックス(人頭税)のあったあと、忽然と姿を消し、誰も行方を知らない。「彼女はプロヴィデンスで天から派遣された天使だったに違いない」とすら思う(笑)。

後年日本へ持って帰ってきた、WW2よりはるか前の黒塗りのラレーのロードスターでその町まで行ってみた。人がほとんどいない、かつては船着き場の倉庫か何かだったのを改造したアーケードの中に、古い絵を分類してその店はあった。といっても英国によくあるタイプで無人のスタンドで、会計はアーケードの中央の管理人が請け負っていた。

そこのTRASPORTATIONの分類の中ににあったんです。大量にパターソンの絵が。ほとんどすべてがパターソン・ブックにもパターソン・ブック2にもはいっていないものでした。

一山かかえてカウンターで清算を済ませ、
「長年の自転車愛好家で、はるか極東の地でも、WW2の前からすでにフランク・パターソンはサイクル・ツーリストの間で尊敬されており、ぜひ一度会ってお話ししたいと、このスタンドの持ち主にお伝えください。」
そこへケンブリッジの住所と名前を書いて置いてきたのですが、ほどなく手紙が来て、ぜひ拙宅へお茶にいらっしゃいという手紙がお付き合いの始まりになった。彼こそパターソン研究家のムーア氏でした。

そこで聞いたパターソンの話はすべて今まで知らないことでしたが、とくに4つのことが印象に残っている。ひとつはフランク・パターソンがエンジニアの家系で、父親からエンジニアになるように大きい圧力をかけられていたが、絵への夢を断ち切れずアート・スクールに行ったこと。その後赤貧生活が長らく続いたこと。

「あ~~、どこかで聞いたような話だな」と思った。私の祖父はどこぞの国の放送局の創立メンバーのひとりで、技術研究所の親玉をやっていた。父は自動車狂だったし、私が高校の時『エカキになりたい』といったら大騒ぎだった。高校の教師たちもしつこく『理科系に進学すれば間違いないから』と年中電話してきていた。私は「試験が終わったらすべて頭から抜けるようなくだらない受験勉強はしない」と宣言して、あてつけで自転車店で受験期にアルバイトをはじめたりしましたから。それを聞いて「おおっ!こういうのは洋の東西をとわないな」と納得。

教師たちは「仕事をきちんと持って絵は趣味にすればいい」と言ってきていましたが、彼らは何もわかっていない。『エカキ』というのは『生き方』の問題なのです。ただ絵が描ければいいとか、賞を取って有名になれば成功とか、豪邸が建てばうまくいったというものではない。ベルナール・ビュッフェなどはそれがわかっていた。だから彼は大成功の中で自らゴミ袋をかぶって果てた。

パターソンの絵の中には、なにかきわめて大きい「生き方の背景」を常に感じました。

英国の自動車メーカーは1903~1908年ぐらいに創業のところが多いのですが、パターソンはこの時期ずいぶん自動車に乗っている。しかし、彼の関心は自動車へ移ることなく自転車にとどまった。彼は非常にしばしば自転車の自動車に対する優位を絵にしている。これは趣味として、醸し出す旅情、自然とのかかわり方において。

実際、ムーア氏はパターソンが機械を徹底的に嫌悪していたことを話していた。パターソンはエリザベス1世時代に建てられた農家に住んでいましたが、発電機を置いたり、電気を使うことに徹底的に反抗していた。彼はヴイクトリア朝のオイルランプと蝋燭の光の生活を押し通した。

これはピカソをはじめとする20世紀の画家の多くが「もはや絵画は人工光線の下で眺められるのだから、人工光線の下で描かれなければいけない」と言っていたのの真逆。彼は毎朝5時~5時半には起きだしていたという。

人はだいたい「スケッチ」というとあらたまって「スケッチブック」を買うものですが、私の経験から言うと「スケッチブックは抵抗する」。まわりを観察しても、スケッチブックは最初の3~5ページを使ってあとはおしまいの人がかなりの割合にあがる。「うまく描こう」という気持ちが邪魔をする。

パターソンは手紙の裏でも、封筒でも、手当たりしだいにあるものにスケッチし、あとはぼんやりとしか写らない、安い箱カメラで撮影。むしろはっきり写ったらよくない。そこから絵を起こし、写っていないところを「視覚的記憶とスケッチ」で描いたらしい。

意外に思えることは、パターソンは脚を怪我をして以来、自転車に乗れなくなっていた。それが、なんと35歳の時のこと。彼がサイクリングをしていた期間は20年弱だったのです。

それが証拠に、彼の描く自転車はほとんどそのすべてが1920年代までのものでストップしている。

かろうじて1930~1940年代のロードスターが出てくるぐらい。HETCHINSやBATESやPARISは一台もない。しかし、テンプル・プレスの面々は、逆にパターソンの絵に影響され、わざわざ大改造して「絵のようにした」と告白しているとムーア氏が言っていた。

つまりパターソンは最終的に自転車に乗れなくなっていたにもかかわらず、絵によって、1950年代まで「英国自転車のシルエットに影響を与え続けた」わけなのです。

これは盲点でした。私はパターソンの絵が古い車両の修復の資料になると思っていましたから。

たしかに、私も「おかしいな」と思ったことがあるのです。たとえば彼の絵にフロントフォークの左右のブレードにランプブラケットを付け、オイルランプをツィンにしているものがありますが、ああいう車両は現実に存在しない。そういう左用のブラケットが製造された記録も、左右両方にブラケットがあるフロント・フォークも、問屋のカタログで調べてもありません。

私が乗っていたゴールデン・サンビーム・スポーツもパターソンの絵とまったく同じにすると奇妙なことになったのです。それはウィングナットは1910年代中頃のもの、ヘッドランプは1906年ぐらいのもの。車両は1928年で、ハンドル形状は1933年。サドルバッグは1920年という具合。

フランク・パターソンは彼の農場でほぼ自給自足でやっていました。彼は植物のことも学び、買い取ったその農場の木々を生き返らせ、果樹やさまざまなベリー類も実がなるように手入れをした。知られていないことですが、彼はビールまで自分で作り、樽を置いていつでも自宅で飲めるようにしていた。訪ねてくる友人たちには「ハウス・ビール」で歓待した。彼の家でしか飲めない味のビール。

私はムーア氏の所へ午後のお茶に行く前、ちょうどお昼をノリッジの骨董屋夫婦のところで食べていたとき「日本で英国のようなビールがつくれるようにならないかな」という話をしていて、150万円ぐらいで『マイクロ・ブリューワリイー』という家庭向けの一式があることを知った。「ああ、パターソンもそういうのを持っていたんだな」とここでも感心した。

私の住んでいた家の主人もパターソンと同じ、ヴイクトリア~エドワード朝の文化の人だったので、たぶんあこがれの生活様式が似ていたのだろうと思う。やはり牛を飼い、ヤギを飼い、庭で野菜をつくり、垣根に果樹を育て、テレビもラジオも冷蔵庫すら持っていなかった。まだバッジの色が赤いロイスはガレージの中でホコリをかぶり、自転車でどこへでも移動していた。

これは、たぶん、あの時代の英国には『人間の制御が効かないくらいのペースで行き過ぎた科学技術』にヴイクトリア朝の公害や自然破壊の記憶と結びついて、そういう強い反発があったのではないか?

私の物故した友人たち(ムーア氏を含めて)は、多くがそういうライフ・スタイルで生活していた。

現代日本では、そういう英国式の生活、かつての日本の自然との共生生活を見直す必要があると私は考える。スモッグけむり、こどもの健康が損なわれる産業革命の英国から日本へきて、イザベラ・バードや多くの英国知識人が日本に理想郷を見た。

私も「江戸回帰」などとは言えないので「英国式」という看板をあげているに過ぎない。

右端は、自動車道路のために消失した風景を糾弾するイラスト。

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