もうずいぶん前のことですが、イタリアのサドル屋が英国のサドル会社の名門を買収したとき、『革サドルを売るにはどうしたらよいか?』と考えた末に、『クラシックな自転車を流行らせるのがよいだろう』と、古い自転車を後押しすることにした。
しかし、「古い時代の自転車をその自転車の同時代の衣装で乗る」というのは誰にでも出来ることではない。その初期には古い自転車愛好家や研究家の助けを借りざるおえなかった、わけです。
ロンドンでのツイードを着ての走行会でも、その初期には、写っているかなりの人たちが私の知っている人たちだった。ジャイルズとかジンジャーは常に写っていたのを覚えている。
ある時点から、彼らが一切タッチしなくなり、なにやら名前が商標登録され、枠が広がってから胡散臭くなってきた。自転車ド素人のファッション関係者が偉そうにシャシャリ出てきて、なんだか自己顕示欲だけの、実態のない『仮装行列』、『ハロウィン行列』のようになってきた観がある。
自転車はデタラメに「古いかのように組んだパチモン」、服装も「それでは日々の自転車上での日常生活無理でしょ?」という、実用性のないモノと化した。
歴史的な正確さもなく、現代において実用的に通用しないファッションは無意味だろうと思う。
だいたいにおいて、そういう人たちは古いサイクリングファッションを盗もうとする。しかし、見る人が見れば、「その服じゃ困るでしょ?」という部分が実に多い。
かなり太いストライプの入った上下にカンカン帽の男性が写っていた。これに「フルチェンケースの自転車」ならまだ話はわかる。ところが自転車が油まみれのチェンむき出しのC国製ですから、10分乗ったら、ズボンのすそが取り返しのつかないくらい真っ黒に汚れるでしょう。何万円衣装にかけたかわかりませんが、『10分間のお遊び』に見える。
昔の女性の自転車乗りは先進的でした。当時はまだ「そんなはしたないもの」と言われるようなニッカボッカを率先して履き始めた。
そこでそういう装束をコピーするわけですが、ところが、ヨーロッパの雑誌をめくっていたら、女性がBROOKSのB17チャンピオン・スワローにまたがっている!男性と女性では骨盤の幅も形状も違う。もちろん股間もちがうので、女性がチャンピオン・スワローなどに長時間乗れるわけがない。悪い冗談だ。
ついでに言えば、女性の場合、サドルに前後の長さはそれほど必要ない。むしろ邪魔な場合が多い。オランダなどには小判型のものすらあります。
昨今の女性用サドルは前後が長く、1970年代までは、メーカーもユーザーもそういう点を気にする『羞恥心』を持ちあわせていた。かつての自転車が優美だったのは、そういう細部まで目が行き届いていたからです。
写真を見るとじつにおかしい。懐中時計の鎖をしているのに、これ見よがしの高級腕時計をしている。どんなに頑丈な時計でも、毎日乗っていれば、腕時計は針が飛んだりする。時計の針はどんな耐震のものでも、プッシャーの付いたピンセットで抜きいれする。ハンマーで叩きこむようなものはない。だから我々はさんざん腕時計を壊して、いまでは懐中時計を使う。
そういう本質を理解せず、うわべだけの仮装行列はむしろ自転車文化にとって害の方が大きいでしょう。様子を写した写真の中に、ビンデイング・ペダルに、暫定ブレーキレバーを一個、ブレーキはフロントだけ、しかも1960年代のマーシャンに1940年代のエアライトのハブに木リムという『大勘違い』が写っていた。
木リムなどは1度のにわか雨でよれよれに狂ってくる。ヴェロドロームを離れた一般道路では、段差やふとした衝撃で木リムは一瞬にして粉砕してたいへん危険なことを我々の世代は知っている。しかもメルクス時代のドリル穴をあけたよく折れるブレーキをひとつだけ付けている。しかもブレーキシューが木リム用ではない。こんな車両は『ロード・リーガルではない』(路上の法律に適合しない)。『そういう悪い手本を見せてくれるな!』と言いたい。
いやぁ~、この時期になると、ボウラー・ハットをかぶったゴールドフィンガーのハロルド坂田みたいなのとか、70年代の中学生用普及品スポーツ車に、いい大人がツィードを着てまたがって、似非パイプくわえた人たちが町を走るのかな、と思うと憂鬱になる。