インターネット時代になって、どうも世の中が陰湿になった気がして仕方がない。
私は日本というのは、伝統的に「顔なしの不特定多数に紛れて誰かを攻撃する」ことで、「仲の良い共同体意識を育てやすい体質」がある気がする。
いじめというのはその最たるもの。これはその文化の中に根を張る「ルサンチマン」と深いかかわりがあると私は考えています。
日本人でも帰国子女や海外生活経験者は、これをはっきり意識する。
夏目漱石はたぶん開国以降はじめてそれをハッキリと看破した人だと思う。どこにそれが出ているか?というと、「坊ちゃん」のなかで、宿直の坊ちゃんに顔のない生徒軍団がバッタを入れたり、ときの声をあげたり、ころばせようと暗闇で棒を出したり。逃げ遅れたやつを捕まえるとしらをきる。
ヨーロッパの人があの英訳本を読むと、坊ちゃんはあまりに単細胞で戦略的な頭脳をかいていて歯がゆく、また集団の生徒は耐え難く卑怯だ、と感じる。何人かにそこを指摘された。
ヨーロッパとひとくくりに言いましたが、これには地域性がある。そういう集団が異質なものに徹底攻撃を加える傾向は、私はスペインやドイツには少なからずある気がする。だからその2国では「魔女狩り」や「異端審問」が度外れて過酷だった。
「歴史は繰り返す」で、WW2の時も同じ事が起こった。ゲットーの門に「労働は精神を浄化する」という札が掲げられていましたが、同じ文言の札が中世の隔離地域にも掲げられていた。一種のいじめとして、ドイツではそうした中世のユダヤ人居住区ではドブや排水路を作ることを法律で禁止していました。
そういうことは日本の西洋史の中で、考える種としてちゃんと教えたほうがよい。
私は世界のあちこちでずいぶんユダヤ人と間違えられました(笑)。意外なことは、あのイスファハンにたくさんユダヤ人がいたこと。昔のペルシャでは、やや高い税金を納めれば、ユダヤ教を信じていても問題がなかったので、たくさん流入したのです。
多くの商人の銭箱にユダヤの星が書いてあった。私はペルシャのシーアの人たちのほうが寛容でバランスがとれていると感じました。ゾロアスターの人もけっこういた。
たぶん、21世紀の最大の問題となるテーマは「不寛容」ということだと思う。
宗教的な不寛容の問題もあるし、村社会の中の共有幻想からくる異分子への不寛容の問題もある。あるいは国が一つの塊としてドグマに固まり、そのほこさきを他国に向ける不寛容もある。
私は昨日は食事を作るのが面倒臭く、母の分を作った後、食べに出ましたが、その店はたいへん真面目にやっている。材料も吟味され、その誠実さが料理にあらわれている。
私は、まじめに作られ、滋養にあふれていれば、味が多少野暮でも気にしない。ところが、インターネットで多弁ログをみると、その家庭的な雰囲気に好意的なコメントに紛れ、まあ、よくぞここまでという罵詈雑言が書いてあるのでビックリした。どこかの競合店が書き込んでいる可能性も否定できない。
「カタクリが多すぎて最低」から始まって、「中の肉が2切れ、2mmほどつながっていた。どういう修行をしてきたのか?まったくなっていない。2度と行かない」「コクがない、オイスターソースをたっぷりいれろ。ひどい味だ」「この場所で高すぎ」(550円とか750円が高いのか?)など、言いがかり以外の何物でもない。
ちなみに、そこは化学味でなく味が優しいので高齢者がよく来ている繁盛店なのです。そこがあるから世の中が悪くなるわけのものでもない。野菜ものでカタクリが強いのは昭和風なのです。4~5歳の孫を連れた高齢者が2人で来ているのもよくみかける。
そこは家族経営なのですが、ああいうのを読んだら重い気持ちになるでしょうね。読まずに我が道を行ってほしい。
私はそこの中高年が集まって、店の人と世間話をしながら、なごやかに食事をしている雰囲気がたいへん今となっては貴重だと思う。周囲10kmでそう言う店はほかに思いつかない。
重い空気で、言論も自分の考えも、何かを作るという表現も圧殺される社会は進歩しない。
「自分の考えを主張できる国際的に活躍できる人材を作る」などと言いますが、まずは「社会の漬物石をどかすことを考えたほうがいい」。
2代目はたぶん20代だと思いますが、たいへん手際がいい。いまどき珍しい真面目で折り目正しさのある人なので、長いこと不思議に思っていた。ふとしたことで、小学校でずっと剣道をやっていたと知りました。「そういうところが見えないようでは、多弁ログに書いたやつは日本の良さがわかってないな」と思う。
プールサイドでつべこべ言ってないで、泳いで見せろ、という感じです。
帰りがけ「料理も運動神経だね。みごとなお手並みでした。ごちそうさま」と言って店を出ました。
私は日本というのは、伝統的に「顔なしの不特定多数に紛れて誰かを攻撃する」ことで、「仲の良い共同体意識を育てやすい体質」がある気がする。
いじめというのはその最たるもの。これはその文化の中に根を張る「ルサンチマン」と深いかかわりがあると私は考えています。
日本人でも帰国子女や海外生活経験者は、これをはっきり意識する。
夏目漱石はたぶん開国以降はじめてそれをハッキリと看破した人だと思う。どこにそれが出ているか?というと、「坊ちゃん」のなかで、宿直の坊ちゃんに顔のない生徒軍団がバッタを入れたり、ときの声をあげたり、ころばせようと暗闇で棒を出したり。逃げ遅れたやつを捕まえるとしらをきる。
ヨーロッパの人があの英訳本を読むと、坊ちゃんはあまりに単細胞で戦略的な頭脳をかいていて歯がゆく、また集団の生徒は耐え難く卑怯だ、と感じる。何人かにそこを指摘された。
ヨーロッパとひとくくりに言いましたが、これには地域性がある。そういう集団が異質なものに徹底攻撃を加える傾向は、私はスペインやドイツには少なからずある気がする。だからその2国では「魔女狩り」や「異端審問」が度外れて過酷だった。
「歴史は繰り返す」で、WW2の時も同じ事が起こった。ゲットーの門に「労働は精神を浄化する」という札が掲げられていましたが、同じ文言の札が中世の隔離地域にも掲げられていた。一種のいじめとして、ドイツではそうした中世のユダヤ人居住区ではドブや排水路を作ることを法律で禁止していました。
そういうことは日本の西洋史の中で、考える種としてちゃんと教えたほうがよい。
私は世界のあちこちでずいぶんユダヤ人と間違えられました(笑)。意外なことは、あのイスファハンにたくさんユダヤ人がいたこと。昔のペルシャでは、やや高い税金を納めれば、ユダヤ教を信じていても問題がなかったので、たくさん流入したのです。
多くの商人の銭箱にユダヤの星が書いてあった。私はペルシャのシーアの人たちのほうが寛容でバランスがとれていると感じました。ゾロアスターの人もけっこういた。
たぶん、21世紀の最大の問題となるテーマは「不寛容」ということだと思う。
宗教的な不寛容の問題もあるし、村社会の中の共有幻想からくる異分子への不寛容の問題もある。あるいは国が一つの塊としてドグマに固まり、そのほこさきを他国に向ける不寛容もある。
私は昨日は食事を作るのが面倒臭く、母の分を作った後、食べに出ましたが、その店はたいへん真面目にやっている。材料も吟味され、その誠実さが料理にあらわれている。
私は、まじめに作られ、滋養にあふれていれば、味が多少野暮でも気にしない。ところが、インターネットで多弁ログをみると、その家庭的な雰囲気に好意的なコメントに紛れ、まあ、よくぞここまでという罵詈雑言が書いてあるのでビックリした。どこかの競合店が書き込んでいる可能性も否定できない。
「カタクリが多すぎて最低」から始まって、「中の肉が2切れ、2mmほどつながっていた。どういう修行をしてきたのか?まったくなっていない。2度と行かない」「コクがない、オイスターソースをたっぷりいれろ。ひどい味だ」「この場所で高すぎ」(550円とか750円が高いのか?)など、言いがかり以外の何物でもない。
ちなみに、そこは化学味でなく味が優しいので高齢者がよく来ている繁盛店なのです。そこがあるから世の中が悪くなるわけのものでもない。野菜ものでカタクリが強いのは昭和風なのです。4~5歳の孫を連れた高齢者が2人で来ているのもよくみかける。
そこは家族経営なのですが、ああいうのを読んだら重い気持ちになるでしょうね。読まずに我が道を行ってほしい。
私はそこの中高年が集まって、店の人と世間話をしながら、なごやかに食事をしている雰囲気がたいへん今となっては貴重だと思う。周囲10kmでそう言う店はほかに思いつかない。
重い空気で、言論も自分の考えも、何かを作るという表現も圧殺される社会は進歩しない。
「自分の考えを主張できる国際的に活躍できる人材を作る」などと言いますが、まずは「社会の漬物石をどかすことを考えたほうがいい」。
2代目はたぶん20代だと思いますが、たいへん手際がいい。いまどき珍しい真面目で折り目正しさのある人なので、長いこと不思議に思っていた。ふとしたことで、小学校でずっと剣道をやっていたと知りました。「そういうところが見えないようでは、多弁ログに書いたやつは日本の良さがわかってないな」と思う。
プールサイドでつべこべ言ってないで、泳いで見せろ、という感じです。
帰りがけ「料理も運動神経だね。みごとなお手並みでした。ごちそうさま」と言って店を出ました。