2年ほど前に、ある友人に戦前のヘッドライトを譲りまして、その彼が『こっちでいいんですか?』と言った。そっちは使いこんで実にいい味が付いているんです。もう一つの方は私は再塗装だと思った。
「こっちのほうが味がいいのに、本当にこっちでいいんですか?」
「いいよ。これのほうが君の車両に合うだろう。自分の分は下地だけの状態でみつけたフレームだから、どのみちフレームは新しく塗らなきゃいけない。」
古い車両の場合、どこか一つの部品が新品でピカピカしていても、その逆もおかしい。
この丁寧に使って味が付いているというのは実に貴重なものです。現代の工業製品の多くのものは、買った時が一番綺麗で、だんだん見苦しくなって行くものが多い。
使うほどに良くなって行くものに革の製品がありますが、これは荒っぽく使ったりすると、あとで修正不可能な傷が残ったり、使っても味に変わってこない汚れになってくる。
自転車も似たところがあると思う。乗ると傷が付いてくるのはやむおえない。しかし、その傷が決して目障りでない自然な「やれかた」というものがある。
一般には気が付かれていませんが、自転車の塗装も紫外線でどんどん色あせてくる。うちの28号の1号車がいまかなり日に焼けていい感じに薄まってきている(笑)。2号車はもう少したたないと色が落ち着かない。
黒ですら焼けて薄まってきます。古い自転車を見ると、「ああ、良い黒だな」と思うのがありますが、再現は不可能。
なので、古いオリジナル塗装は貴重なのです。うちのダークグリーンとパナール・ブルーはいい具合の色になることがわかっています。これはフロントフォークを日にさらしているので実証済み。大名マルーンはまだわからない。密かな期待は、T型フォードのような、オースチンの30年代の色のように沈んでいってくれるのを願っているのですが、こればかりはわからない。
メタリックシルバーも焼けてきますが、うちにある1950年代のフランスのフレームがまさにその色。くすんだアルミのような色で私は実にいいと思うのですが。オーナーはパールホワイトに塗り替えてくれという注文。
たぶん、塗った人は、フレームとアルミパーツの統一的な色味を考えてそのシルバーにしたと思うので、私は剥離を先延ばしにしている。ほんとうのところ今の色を落としたくない。
むかし、ヨーロッパでは海泡石のパイプというのが珍重されました。これは一度指紋がついてから吸い始めるといつまでもその指紋があざのように残る。じっくり使い込んでゆくと、その真っ白い石がべっこうのような透き通った飴色になるのが知られていて、色が付くまでひたすら白い手袋をはめた召使に使わせ、もう指紋がつかなくなったころを見計らって、吸い口を新しく作り、主人が吸う。
同じようなことは革製品にも言える。
英国、フランス、イタリアの人たちは綺麗に使い込んだ味のある革製品をたいへん高価に値踏みする。サドルなどもそのくちです。うまく乗りこまれた革サドルは実に美しい。
これは一度でもなげやりな扱いをすると、そこでいったん糸が切れたように見苦しくなる。
これは古いヌメ革のカメラケースなどでもそうで、大切に長年使われてきた革ケースには風格が宿る。
私は自転車もそうだと思うのですが、これは使用部品にもずいぶん左右される気がする。塗装とかロゴがたくさん入っているものは、それが剥げてきた時、見苦しくなる気がします。
時間の試練に耐えて深みを増す物は貴重です。かつての実用車はみごとにそれぞれが、使われた具合を反映して個性的になって行ったのが懐かしく思えます。