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Channel: 英国式自転車生活
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ツイード・ランへの道2

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前のページでも書きましたが、ツイードランというのは、もともと古い歴史的車輌を、ピリオド・コスチュームで乗って動態保存する走行会が英国にあったのを、革サドルを売るためのプロモーションとして、アンドレアらが仕掛けたものです。

「歴史的車輌」と「ピリオド・コスチューム」という二つの柱がなくなり、革サドルのプロモーションという、ある程度の「センスのよいサクラを混ぜた」ところがなくなると、どこで落しどころとするのか?

前のページの英国での「動態保存会」の歴史的車輌の参加者たちは、それは実によく「歴史」を勉強しています。たとえばの話、英国で10年違ったら、ファッションは「ミニスカート」と「マキシ」ですから、いいかげんなことなどできないのです。

そして、英国で私立の名門学校へでも行けば、小学生の時代からモーニングを着て、靴は毎日磨き、どんなにくたびれた靴であっても、かかとは新しくつけ、寄宿舎制度のところで、毎朝、どんなに寒くても、お湯のほとんど出ない英国の風呂で(シャワーすらも稀)、身支度をととのえ、一点もすきのない姿で一日を始める。

そういうところを通過した人たちが、ツイードランで「おしゃれをしよう」というのと、東洋の国でやるのとでは、それは大きく差が出るでしょう。

英国へ行ったことがあるひとならご存知と思いますが、すべての「真鍮の取っ手などはくもりなく磨かれています」。そういう生活をへて、大学へ行くとBedderと言うような人がつく。学生の本分は勉強をして世の中に尽すことなので、掃除だの洗濯だのをやる必要はない。そのような誰でも出来ることは、そういう人たちにやらせば、彼らの能力を引き出すことの足を引っ張ることになる。掃除・洗濯などはそうしたbedderがやってくれます。洗濯などをしている時間があったら勉強しろというわけです。

ですので、徹底した分業制で、知的能力のある人たちは全精力を知的分野にふりむける。それが「国」としてのまとまりのなかで、最大の人的資源の活用になる、そう彼らは考える。

それを現代日本人の学校教育の思想でいうなら、不平等と思われるかもしれませんが、英国的に考えるなら、機会平等のなかでついた差だから、そこから先は「すべての人はその自分の能力に見合ったところで全力を尽す」ということになります。

「英国の紳士服の本質というのと、そういう英国の学校教育というのは切り離せない」。バルモラルの靴も、イートン、ハロウ校の生徒がはく、ツイードもそういう人たちが釣りに行く、ハイキングに出る、狩に行く、人を休日に訪問する、そういう時に着る。そして、それぞれの要素によってカットはことなる。

いままで、高度成長期、教師にはなり手が少なく、「教師にでもなるか」とか「教師にしかなれない」などという「でもしか先生」という単語が流行ったこともありました。その果てにきた「荒れる教室」。やがて運動会でもみんな手をつないで一緒にゴールすると言う、恐るべき画一化教育。

ヨーロッパなら、不文律の規則のうえで「遊び」がはいる、「崩し」がはいる。音楽でも、彼らはある一定年齢までは教会へ礼拝へゆき、そこの賛美歌はハイドンだったり、バッハだったり、ヘンデルだった、フレスコバルデイだったりするわけです。それら古典を聞いたあとで、ロックでもなんでもやっている。

ヨーロッパなら、「服装が人を作る」という考えがあります。その服装の基本的ルールは幼少時から叩き込まれている。崩してもゆるがない骨組みがある。

バートランド・ラッセルがアメリカで生活していた時、彼は「アメリカにある『誤った平等意識』」のことを書いています。また、その表向きの平等意識の裏で、ものすごい偏見と差別が横行しているとも、ラッセルは「アメリカ人が黒人やその他の有色人種のことを語ると、同席するのが耐えられないほどだ」と書き記しています(彼のアメリカ生活時代)。

日本では戦後、そうしたアメリカ式の平等主義と、古来の村的画一主義が融合しているのではないか?ですので、私は「ツイードランの紙の付けひげ」と「セルロイドの造花の商店街の花祭り」はよく似ていると思う。本家のツイードランは、たとえ本当に古いオリジナルのマシーンが買えなくとも、そんなお茶らけでやってはいません。有名俳優も来るほどなのです。

そういう、英国のように「規律を徹底的に叩き込まれたあと、自由に解き放たれた人」と、「規律なく、好き勝手にやってる」とは、根本的なところで大きく違うだろうと思います。日本は悪平等と画一化のもと、なんともいえない仏教道徳・イスラーム道徳・ヒンズー道徳の色濃く残るアジア諸国からもキリスト教・ユダヤ教道徳の残る西欧諸国からも受け入れられない規律のない好き勝手に到達したのではないか?

それは服装にもでます。「楷書が書けない人間の書いたデタラメな行書」のように見える。しかも、そこには「東洋人がなぜツイード?英語も出来ない人がなんで英国自転車?」ということには答えられていない。自転車をきっかけとして英国に興味を持つとか、明治時代の日本と英国、日英同盟時代の日本への英国の影響とか、興味が広がればいいのですが、それが、ただ「物だけ持って」というのは私は共感できない。

着物でもそうですが、スタイルブックそのままに、上から下まで貸衣装という感じでは、まだまだ本物ではない。それを自分のものに着こなすまでがたいへんな自己修行と修養が必要なのです。最後はある程度自分の着方にくずす。かつては日本でも「エモン掛け」と言って上から下までおニューの人を馬鹿にしたものですが、まったく同じ語法は英国英語にもあります。

どうも日本では、「その底流にある規律と基本が理解されずに、『豹柄おばさんの大行進』なってしまう危険をはらんでいるのではないか?」

以前のツイードランでは「チチカカ湖のほとりで売られている、英国の銀行員のかぶる帽子か?ゴールドフィンガーのハロルド坂田か?」というような感じのもの、今回の紙の付けヒゲ。それは「どこか海外で『あおい祭り』と言って、浴衣とバスローブでパレードするようなものではないのか?」。

それはまともなヴィンテージ、ヴェテラン、パイオニアの自転車で、ピリオド・コスチュームでやってきた人々を、「紙の付けひげで馬鹿にしている」に等しいものだと私は思う。しかも前のページで書いたとおり、ツイードランは、そうした歴史的車輌の保存会の集会に、「クリチカルマス」の要素を入れて、ただのりしたに等しいのです。

「いや、ちょっとそれはもう一度考えたほうがいいんじゃないかな」と思いました。

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