昨晩、帰りがけに画集を105円で買いました。105円で出ているということは、それでしばらく売れなかったら、パルプにされてしまうかグラビアだからただのゴミ。
ならば、買ってほぐして、マットを切って額にいれようと思った。
思えば、学生時代、そういうものも貴重で、たとえほぐした一枚でも、ない絵は手にはいらなかった。
高田馬場にあつた喫茶店らんぶるには、ユトリロの母親のシュザンヌ・ヴァラドンの切り取った一枚が額に入っていた。当時、ヴァラドンの画集はなく、その絵はフランスのフラマリヨンから出た本にしか入っていないのを、我々は知っていました。
「あの画集を切ったのかな?」
「そうとしか思えない。」
「いいな。うちにも欲しいな。ああいうのをかけて、シャンソンでも聴いていたいな。」
当時、みすず書房から出た4mm厚ぐらいのB5より小さい正方形の画集があって、それの相場が喫茶店の珈琲の2杯分より高かった。切り取る勇気はありませんでした。
今見るとずいぶん色も悪かったものですが、それでも「宝石のような感じがした」。カバンに入れて、喫茶店に行き、開いてみていた。
ああいう素朴な感覚が、時代とともに薄れた気がする。
それを言うと、2万五千分の一の地図や、5万分の一の地図も大切だった。我々は端を折り曲げて使っていましたが、『それは素人だ。記号が読めない人がやることで、地図は端を切り落とすのが本格』という人もいた。
昔の地図は何枚かはいまだに持っている。現代では紙の地図など持たず、スマホとGPSの人が大半でしょう。たしかに便利なのですが、なんだか気分が高揚しない。コンパスもGPSスマホがあればいらない。
人間は原始時代から、キノコを見つければ喜び、魚を見つければ喜び、カニを見つければ喜び、果物を見つければ喜び、してきたわけで、何か、歩き回る時に見つけることに楽しみを見出すものだと思う。
そうした衣食住がすべて足りたところで、何か綺麗な石を見つけたり、風景を楽しんだりという余裕の中で文化を生んできたと思う。
これは『道具を使う動物の本能』として、そういう持ち物が喜びを与えるのだと思う。
それは使えて便利だ、とか、そういうものよりもっと深いところの満足の気がする。
100円玉を入れると、紙コップが落ちてきて、珈琲豆を挽く音がして、自動的にドリップしてくれる。豆を買いに行く手間もなく、ドリップした後の豆を処理する手間もない。
最高に便利なわけですが、自分でゴリゴリ音をたてて、豆を挽く楽しみはなくなっている。砕かれてゆく豆のたてる香りを手の中から立ち昇るのを楽しむこともない。
それは自分の知っている人が珈琲を淹れてくれるのでも、やはりそこには過程を楽しむ本質がある。
これはデジカメもそうで、私はいまだに『機械が勝手にうまく撮ってくれました』みたいな感じがする。
素朴なところで、新鮮な感覚をもてないと、『あまりに早く通り過ぎてしまって、味わえていないのではないか?』。
私は『ああ、良い本だな』というのを見つけると、すらすら読み進んでしまうのがもったいない気がする。一気に読まず、少しづつ味わって読み進む。
たぶん、デジタル時代の読書は、すべてが情報となっていて、文学も音楽も、思想も、ことごとく、『選択』する『作業』になっているのかもしれない。
本が『一冊の塊』になっていた時代には、それと格闘するよりほかなかった。一つの塊をあっちから眺め、こっちから眺め、消化してゆく。それは自分の血肉となる。
いまは知識もなにもすべて情報化しているので、『答えも情報としてどこかにあると思う人が多い』。
ところが、個人レベルでも国家レベルでも多くの難題の答えは情報としてころがっていない。
そうしたなかで、素朴なものに深い満足をみつける人は、人生からも深いものを引き出しているように見える。
たとえば、晩年に難病にかかったら、『情報型頭脳の人』はどうするでしょう?情報を集め、名医を捜し、その医師にかかるのに十分なお金を作る算段をして、自分の難病に関する情報を集めるに違いない。
これが100年前、数百年前の偉人だったら?情報集めなどせずに、作品か哲学を生み出すのではないか?そして満足をみつけようとすると思う。
素朴な満足。これがなかなかどうして、簡単なものではありません。
ならば、買ってほぐして、マットを切って額にいれようと思った。
思えば、学生時代、そういうものも貴重で、たとえほぐした一枚でも、ない絵は手にはいらなかった。
高田馬場にあつた喫茶店らんぶるには、ユトリロの母親のシュザンヌ・ヴァラドンの切り取った一枚が額に入っていた。当時、ヴァラドンの画集はなく、その絵はフランスのフラマリヨンから出た本にしか入っていないのを、我々は知っていました。
「あの画集を切ったのかな?」
「そうとしか思えない。」
「いいな。うちにも欲しいな。ああいうのをかけて、シャンソンでも聴いていたいな。」
当時、みすず書房から出た4mm厚ぐらいのB5より小さい正方形の画集があって、それの相場が喫茶店の珈琲の2杯分より高かった。切り取る勇気はありませんでした。
今見るとずいぶん色も悪かったものですが、それでも「宝石のような感じがした」。カバンに入れて、喫茶店に行き、開いてみていた。
ああいう素朴な感覚が、時代とともに薄れた気がする。
それを言うと、2万五千分の一の地図や、5万分の一の地図も大切だった。我々は端を折り曲げて使っていましたが、『それは素人だ。記号が読めない人がやることで、地図は端を切り落とすのが本格』という人もいた。
昔の地図は何枚かはいまだに持っている。現代では紙の地図など持たず、スマホとGPSの人が大半でしょう。たしかに便利なのですが、なんだか気分が高揚しない。コンパスもGPSスマホがあればいらない。
人間は原始時代から、キノコを見つければ喜び、魚を見つければ喜び、カニを見つければ喜び、果物を見つければ喜び、してきたわけで、何か、歩き回る時に見つけることに楽しみを見出すものだと思う。
そうした衣食住がすべて足りたところで、何か綺麗な石を見つけたり、風景を楽しんだりという余裕の中で文化を生んできたと思う。
これは『道具を使う動物の本能』として、そういう持ち物が喜びを与えるのだと思う。
それは使えて便利だ、とか、そういうものよりもっと深いところの満足の気がする。
100円玉を入れると、紙コップが落ちてきて、珈琲豆を挽く音がして、自動的にドリップしてくれる。豆を買いに行く手間もなく、ドリップした後の豆を処理する手間もない。
最高に便利なわけですが、自分でゴリゴリ音をたてて、豆を挽く楽しみはなくなっている。砕かれてゆく豆のたてる香りを手の中から立ち昇るのを楽しむこともない。
それは自分の知っている人が珈琲を淹れてくれるのでも、やはりそこには過程を楽しむ本質がある。
これはデジカメもそうで、私はいまだに『機械が勝手にうまく撮ってくれました』みたいな感じがする。
素朴なところで、新鮮な感覚をもてないと、『あまりに早く通り過ぎてしまって、味わえていないのではないか?』。
私は『ああ、良い本だな』というのを見つけると、すらすら読み進んでしまうのがもったいない気がする。一気に読まず、少しづつ味わって読み進む。
たぶん、デジタル時代の読書は、すべてが情報となっていて、文学も音楽も、思想も、ことごとく、『選択』する『作業』になっているのかもしれない。
本が『一冊の塊』になっていた時代には、それと格闘するよりほかなかった。一つの塊をあっちから眺め、こっちから眺め、消化してゆく。それは自分の血肉となる。
いまは知識もなにもすべて情報化しているので、『答えも情報としてどこかにあると思う人が多い』。
ところが、個人レベルでも国家レベルでも多くの難題の答えは情報としてころがっていない。
そうしたなかで、素朴なものに深い満足をみつける人は、人生からも深いものを引き出しているように見える。
たとえば、晩年に難病にかかったら、『情報型頭脳の人』はどうするでしょう?情報を集め、名医を捜し、その医師にかかるのに十分なお金を作る算段をして、自分の難病に関する情報を集めるに違いない。
これが100年前、数百年前の偉人だったら?情報集めなどせずに、作品か哲学を生み出すのではないか?そして満足をみつけようとすると思う。
素朴な満足。これがなかなかどうして、簡単なものではありません。