若いころ20代から40歳ぐらいまで、狂ったようにアンテイックを買っていました。だいたい売ったり買ったりしていたので、手元にはあまり残っていませんが、なぜ「古物」だったのか?自分を振り返ってみると興味深い。
その前、10代はじつは自転車と並んで私の出費の上位を占めていたのは画集でした。
だいたい23~24歳ぐらいで画集はもう新刊本で買うものがありませんでした。世田谷の木造の家は画集の重さで『ねだ』が抜けた。神田の古本屋へ行ってもさして欲しいものがなかった。輸入画集を買うぐらい。そのあと、『現物』へ行きたかったのですが、絵画はなかなか手が出ない。そこでアンティックへ行った。
私が一番好きだったのはガラスなのですが、不思議なもので、数を見ていると名前もマークもないガラス器が、どこの国のいつの時代のモノかわかるようになった。
これはどの分野でも同じだろうと思います。ノーマークの自転車のフレームを見せられて、マニアならフランスのものかイタリアのものかはわかるでしょう。
そして、その先に好き嫌いが出てくる。1980年代、骨董品をフランスと英国で見較べると、フランスで同様のものがあった場合、英国より2~3割安かった。ドイツやオーストリアだとフランスよりもっと安かった。
ベルギーにもありましたが価格はそこそこ高い。ECとNATOの本拠があり、平均給与の高い国でしたから。
これが不思議なのですが、フランスのものは欲しいと思わなかった。歩いていて「ああ、安いな、ものがいいな」と思うのですが、欲しいと思わなかった。これはドイツでもそう感じた。椅子でも、掛け時計でも、食器でも、フランス、ドイツでは欲しいと思うものがなかった。
しかし、英国とオーストリアでは欲しいものがたくさんあった。ケミカルマッチングがいい。
これはもう、生理的なものとしか言えません。わかりやすい例を言うと、自転車のランプで1910年ごろ、というと、英国ならJoseph Lucas, Miller, P&H,などですが、どれも好きです。フランスならLuxorのカーバイドランプですが、カタチも作りも設計もひどく悪い。ドイツはBOSHのカーバイトランプなどですが、これも異様に重く、医療器具のような陰気な形で使う気にならない。ところがウイーンの骨董市には、オーストリアの誇るラッツオネのカーバイドランプがあったりする。これはカタチもルーカスといずれ菖蒲か杜若で、じつに華麗で堂々としている。しかも重さがルーカスの半分ぐらいだったりします。
これは部屋で使うオイルランプを見ていても同じで、英国のモノはじつによくできている。燈心が大小2本並んでついていて、明るさ調整が出来るようになっていて、小さい方だけを点灯すれば、省エネモードになる。また、火をつける時はホヤがレバーで自動的に上がり、さらに緊急の時には、レバーで一瞬にして消火できる。
こういう構造のランプはドイツやフランスにはなかった。フランスのものは帯状の芯を筒にしたものが多く、明るいのですが、熱量が多く、ホヤが割れやすい。オイルの消費も多い。
日本には各国から明治時代に入ってきたので、アメリカ型、フランス型、英国型、ドイツ型などの舶来品が混在している。
ただ、見てみると、日本で独自に作られて発達したランプは面白いのです。幕末から明治にかけては動乱期でしたから、びいどろ職人が干上がっていた。ガラスのそういうものは、平和な太平の世にしか流行しません。
そういう職人が、明治になって、ランプを見ると、これが腕の見せ所とけっこう凝ったものを作った。日本のびいどろ職人は決してヨーロッパには負けていなかった。江戸時代からの継続的な美学が見える。
ここが、私は自動車や自転車の場合と大きく違う点だと思う。
びいどろ職人は、ヨーロッパの物をそのまま形を写し、『日本のほうが工作がていねいで仕上げが綺麗だ』とかは言わなかった。
今の自動車がつまらないのも、まさにそこなのではないか?
びいどろ職人はまったく違うものを提示した。
全体的なプロポーションにおいても、日本のランプはドイツ製やアメリカ製より私は美しいと思う。
明治20年ごろ、そうしたランプを作るびいどろ師は、東京に50人ほど、大阪に100人ほどいた。それがやがて、ランプが廃れると、カキ氷の器で、さらに梅模様とか、もっと細道に入った技巧を極めた。
ああいうガラスの器は海外にはない。私は日本のガラスの古いものが実に好きです。
なぜか、切子のガラス器はいくらでも百貨店にあるのに、「吹きガラスの凝ったものはまったく見ない」。たぶんもう職人さんが技術を継承していないのだと思う。
今日は午後、市役所に用があり、そのあと、かつてのデパートのビルのワンフロアがすべて本屋という、東京一の在庫を誇る書店へ行ったのですが、そういう「江戸のびいどろ」「明治のびいどろ」の本は一冊もありませんでした。
古本では私は何冊か持っている。そういう資料すらも、どこを探してもないというのでは、「ものづくり日本」などというのはお寒いばかりだと思う。
その前、10代はじつは自転車と並んで私の出費の上位を占めていたのは画集でした。
だいたい23~24歳ぐらいで画集はもう新刊本で買うものがありませんでした。世田谷の木造の家は画集の重さで『ねだ』が抜けた。神田の古本屋へ行ってもさして欲しいものがなかった。輸入画集を買うぐらい。そのあと、『現物』へ行きたかったのですが、絵画はなかなか手が出ない。そこでアンティックへ行った。
私が一番好きだったのはガラスなのですが、不思議なもので、数を見ていると名前もマークもないガラス器が、どこの国のいつの時代のモノかわかるようになった。
これはどの分野でも同じだろうと思います。ノーマークの自転車のフレームを見せられて、マニアならフランスのものかイタリアのものかはわかるでしょう。
そして、その先に好き嫌いが出てくる。1980年代、骨董品をフランスと英国で見較べると、フランスで同様のものがあった場合、英国より2~3割安かった。ドイツやオーストリアだとフランスよりもっと安かった。
ベルギーにもありましたが価格はそこそこ高い。ECとNATOの本拠があり、平均給与の高い国でしたから。
これが不思議なのですが、フランスのものは欲しいと思わなかった。歩いていて「ああ、安いな、ものがいいな」と思うのですが、欲しいと思わなかった。これはドイツでもそう感じた。椅子でも、掛け時計でも、食器でも、フランス、ドイツでは欲しいと思うものがなかった。
しかし、英国とオーストリアでは欲しいものがたくさんあった。ケミカルマッチングがいい。
これはもう、生理的なものとしか言えません。わかりやすい例を言うと、自転車のランプで1910年ごろ、というと、英国ならJoseph Lucas, Miller, P&H,などですが、どれも好きです。フランスならLuxorのカーバイドランプですが、カタチも作りも設計もひどく悪い。ドイツはBOSHのカーバイトランプなどですが、これも異様に重く、医療器具のような陰気な形で使う気にならない。ところがウイーンの骨董市には、オーストリアの誇るラッツオネのカーバイドランプがあったりする。これはカタチもルーカスといずれ菖蒲か杜若で、じつに華麗で堂々としている。しかも重さがルーカスの半分ぐらいだったりします。
これは部屋で使うオイルランプを見ていても同じで、英国のモノはじつによくできている。燈心が大小2本並んでついていて、明るさ調整が出来るようになっていて、小さい方だけを点灯すれば、省エネモードになる。また、火をつける時はホヤがレバーで自動的に上がり、さらに緊急の時には、レバーで一瞬にして消火できる。
こういう構造のランプはドイツやフランスにはなかった。フランスのものは帯状の芯を筒にしたものが多く、明るいのですが、熱量が多く、ホヤが割れやすい。オイルの消費も多い。
日本には各国から明治時代に入ってきたので、アメリカ型、フランス型、英国型、ドイツ型などの舶来品が混在している。
ただ、見てみると、日本で独自に作られて発達したランプは面白いのです。幕末から明治にかけては動乱期でしたから、びいどろ職人が干上がっていた。ガラスのそういうものは、平和な太平の世にしか流行しません。
そういう職人が、明治になって、ランプを見ると、これが腕の見せ所とけっこう凝ったものを作った。日本のびいどろ職人は決してヨーロッパには負けていなかった。江戸時代からの継続的な美学が見える。
ここが、私は自動車や自転車の場合と大きく違う点だと思う。
びいどろ職人は、ヨーロッパの物をそのまま形を写し、『日本のほうが工作がていねいで仕上げが綺麗だ』とかは言わなかった。
今の自動車がつまらないのも、まさにそこなのではないか?
びいどろ職人はまったく違うものを提示した。
全体的なプロポーションにおいても、日本のランプはドイツ製やアメリカ製より私は美しいと思う。
明治20年ごろ、そうしたランプを作るびいどろ師は、東京に50人ほど、大阪に100人ほどいた。それがやがて、ランプが廃れると、カキ氷の器で、さらに梅模様とか、もっと細道に入った技巧を極めた。
ああいうガラスの器は海外にはない。私は日本のガラスの古いものが実に好きです。
なぜか、切子のガラス器はいくらでも百貨店にあるのに、「吹きガラスの凝ったものはまったく見ない」。たぶんもう職人さんが技術を継承していないのだと思う。
今日は午後、市役所に用があり、そのあと、かつてのデパートのビルのワンフロアがすべて本屋という、東京一の在庫を誇る書店へ行ったのですが、そういう「江戸のびいどろ」「明治のびいどろ」の本は一冊もありませんでした。
古本では私は何冊か持っている。そういう資料すらも、どこを探してもないというのでは、「ものづくり日本」などというのはお寒いばかりだと思う。