あるパーティーで故K章太郎さんと話していて、思わずにやりとしたことがありました。
「R&Fさん。うちの雑誌面白いですか?」
「いや、まあ、古いクルマの特集があったりするとたまに買いますけど。」
「ああ、それはありがとうございます。ボクはねぇ、1980年ぐらいまでの分しか家に置いていないんですよ。」
「それはどうしてです?英国車が存在を薄めて行き、ドイツ車が台頭したからですか?」
「それもありますが、どうもあのあたりから趣味自体が大きく変わってしまったような気がして。結局、あそこからバブルが始まったでしょう?その時、今までのクルマ趣味の人と違うタイプの人が大量に入ってきたと思うんです。」
これはなかなか時代の空気をリアルタイムで吸っていない人にはわかりにくいと思いますが、私にはその言わんとすることがよくわかった。じつは、気を使って『たまに買います』と言ったものの、ほとんど立ち読みだけで1982年を最後に買っていませんでした(笑)。
じつは60年代というのは、ある意味、最後のヨーロッパらしさが急速に薄れていった時期ではなかったのか?という気が英国へ行った後から強くした。
古い自転車をやっていて、それはしみじみとわかる。英国車の場合、1930年代の車両と1955年ぐらいの車両では、ほぼすべて部品の入れ替えが利く。見る人が見るとわかりますが、1930年代の車両を1950年代の部品を混ぜてレストアしてもほとんどの人は気が付きません。しかし1958年となるともうまったく変わって来る。
それは製品のデザインのほうも、乗っている人たちの風情も違うのです。
先日、私の作った自転車を4台買った方がきて、ヴェスパを持っているという話になりました。その時、1960年代はヴェスパがモッズ御用達だったという話題になった。
1960年代の英国では、ロッカーズが大型バイクに乗り、モッズがヴェスパやランブレッタに乗り、お互いにいがみあっていた。ブライトンの海岸で団体が衝突して乱闘になり、警察が出ることもあったぐらいです。
あの時代のロッカーズは「タンアップボーイ」という用語があって、タンとはトンのこと、時速160kmのことです。それが出せたら一人前というので称号のようなものだった。ジュークボックスで1曲かけ、針が落ちるとバイクへダッシュして、全速で一周して決められたところへ到着の印を残し、曲が鳴り終わる前に帰って来る。そういうことをやって住民のまゆをひそめさせた。
その時代のバイクの服装はレザージャケット。そのシルエットはドイツの陸軍の「タンククローズ」、つまり革のダブルのトレンチコートを短くしたものだと言われています。帽子はやはり軍帽のようなものの、つばを白にしたもの。勲章の代わりにバッジをたくさんつけた。そういう中で、モッズは「あいつらだせー」とビートニックのような細いズボンにスーツで決めた(ビートルズがむしろモッズを取り入れた)。
マーロン・ブランドが映画の中で英国の寅のバイクに乗って、このスタイルです。
英国ではバイクの地位は独特で、1930年代までは、自動車のレーサーは白い服に白いヘルメット、いざとなればグランドツアラーとして、モンテカルロまででも行けるクルマに乗り、レースの打ち上げはリッツ・ホテルを借り切ってやった。白洲次郎のベントレーの世界です。一方、バイク乗りは黒づくめ、ヘルメットも黒、第二次大戦前まで、ブルックランズ・サーキットのクラブ・ルームにはバイク乗りは入れてもらえませんでした。
そうしたロッカーズとモッズがたいそう二輪車の評判を貶めたので、前からバイクをやっていたヴェテランはノートンやヴェロセットに乗った。ここが面白いところなのですが、ロッカーズはなぜか「ヴァーチカル・ツインをもって正統とする」という暗黙のおきてがあって、硬派はビッグシングルに乗らなかった。
そのヴェテランたちは、第二次世界大戦中は、腕を見込まれてバイクに乗せられていた。バイクの伝令だったりさまざまですが、英国の陸軍の支給品は、位によって格差があって、時計でも、普通の下士官ぐらいまではレオ二ダス。もう少し上はロレックス、将校クラスはジャガールクルトでした。バイクも同じで普通はBSA。みんなノートンに乗りたがった。
あの時代、英国ではバイクも自転車も、ローンで買えるようになった。それで今までと違うタイプの人、ティーンエイジャーがそういうものに乗れるようになったという背景がある。
ここまででわかる通り、チキチキマシン猛レースでキザトト君が白づくめなのは歴史的に正しい(笑)。
その60年代。英国ではその10年間に、バイクで40歳前に事故死したり深刻な怪我による傷害を負った人は4万人にものぼった。
そう考えると、ホンダがあの時代、スーパーカブの英語圏での広告に「ホンダに乗る人はみんないい人」というコピーをうった意味がわかる(笑)。
そういう潮流のなかで、英国の1960年代の自転車関係の雑誌や書籍をみると、かなり「競技色」が強くなっているのがわかる。自転車による「旅文化」が大きく後退しているのです。列車の路線の3分の2が閉鎖され、鉄道と自転車のハイブリッド利用の旅も難しくなった。
フランク・パターソンももはやいない。名編集長ジャック・ククロスもいない。「サイクル・ツーリングは自分にとっての気晴らしで、トレーニングでもあるのだ」と語り、サイクリング車をかたわらに停めてパイプをふかす写真を広告に載せた世界チャンピオン、レジナルド・ハリスもいない。
自転車はどんどん工場が外に出て、英国内は空洞化して、ラレーもモザンビークなどで生産されていた。
大衆化→低価格化→趣味性の低下→趣味自体のグレード低下。こういう流れはバイクでもスキーでもあった。
そういう「時代の変わり目」を歴史的に見ると、今の日本の自転車も大きな節目にきていると思わざるおえません。伝統を絶やさないために旧世代は頑張らないといけない。
「R&Fさん。うちの雑誌面白いですか?」
「いや、まあ、古いクルマの特集があったりするとたまに買いますけど。」
「ああ、それはありがとうございます。ボクはねぇ、1980年ぐらいまでの分しか家に置いていないんですよ。」
「それはどうしてです?英国車が存在を薄めて行き、ドイツ車が台頭したからですか?」
「それもありますが、どうもあのあたりから趣味自体が大きく変わってしまったような気がして。結局、あそこからバブルが始まったでしょう?その時、今までのクルマ趣味の人と違うタイプの人が大量に入ってきたと思うんです。」
これはなかなか時代の空気をリアルタイムで吸っていない人にはわかりにくいと思いますが、私にはその言わんとすることがよくわかった。じつは、気を使って『たまに買います』と言ったものの、ほとんど立ち読みだけで1982年を最後に買っていませんでした(笑)。
じつは60年代というのは、ある意味、最後のヨーロッパらしさが急速に薄れていった時期ではなかったのか?という気が英国へ行った後から強くした。
古い自転車をやっていて、それはしみじみとわかる。英国車の場合、1930年代の車両と1955年ぐらいの車両では、ほぼすべて部品の入れ替えが利く。見る人が見るとわかりますが、1930年代の車両を1950年代の部品を混ぜてレストアしてもほとんどの人は気が付きません。しかし1958年となるともうまったく変わって来る。
それは製品のデザインのほうも、乗っている人たちの風情も違うのです。
先日、私の作った自転車を4台買った方がきて、ヴェスパを持っているという話になりました。その時、1960年代はヴェスパがモッズ御用達だったという話題になった。
1960年代の英国では、ロッカーズが大型バイクに乗り、モッズがヴェスパやランブレッタに乗り、お互いにいがみあっていた。ブライトンの海岸で団体が衝突して乱闘になり、警察が出ることもあったぐらいです。
あの時代のロッカーズは「タンアップボーイ」という用語があって、タンとはトンのこと、時速160kmのことです。それが出せたら一人前というので称号のようなものだった。ジュークボックスで1曲かけ、針が落ちるとバイクへダッシュして、全速で一周して決められたところへ到着の印を残し、曲が鳴り終わる前に帰って来る。そういうことをやって住民のまゆをひそめさせた。
その時代のバイクの服装はレザージャケット。そのシルエットはドイツの陸軍の「タンククローズ」、つまり革のダブルのトレンチコートを短くしたものだと言われています。帽子はやはり軍帽のようなものの、つばを白にしたもの。勲章の代わりにバッジをたくさんつけた。そういう中で、モッズは「あいつらだせー」とビートニックのような細いズボンにスーツで決めた(ビートルズがむしろモッズを取り入れた)。
マーロン・ブランドが映画の中で英国の寅のバイクに乗って、このスタイルです。
英国ではバイクの地位は独特で、1930年代までは、自動車のレーサーは白い服に白いヘルメット、いざとなればグランドツアラーとして、モンテカルロまででも行けるクルマに乗り、レースの打ち上げはリッツ・ホテルを借り切ってやった。白洲次郎のベントレーの世界です。一方、バイク乗りは黒づくめ、ヘルメットも黒、第二次大戦前まで、ブルックランズ・サーキットのクラブ・ルームにはバイク乗りは入れてもらえませんでした。
そうしたロッカーズとモッズがたいそう二輪車の評判を貶めたので、前からバイクをやっていたヴェテランはノートンやヴェロセットに乗った。ここが面白いところなのですが、ロッカーズはなぜか「ヴァーチカル・ツインをもって正統とする」という暗黙のおきてがあって、硬派はビッグシングルに乗らなかった。
そのヴェテランたちは、第二次世界大戦中は、腕を見込まれてバイクに乗せられていた。バイクの伝令だったりさまざまですが、英国の陸軍の支給品は、位によって格差があって、時計でも、普通の下士官ぐらいまではレオ二ダス。もう少し上はロレックス、将校クラスはジャガールクルトでした。バイクも同じで普通はBSA。みんなノートンに乗りたがった。
あの時代、英国ではバイクも自転車も、ローンで買えるようになった。それで今までと違うタイプの人、ティーンエイジャーがそういうものに乗れるようになったという背景がある。
ここまででわかる通り、チキチキマシン猛レースでキザトト君が白づくめなのは歴史的に正しい(笑)。
その60年代。英国ではその10年間に、バイクで40歳前に事故死したり深刻な怪我による傷害を負った人は4万人にものぼった。
そう考えると、ホンダがあの時代、スーパーカブの英語圏での広告に「ホンダに乗る人はみんないい人」というコピーをうった意味がわかる(笑)。
そういう潮流のなかで、英国の1960年代の自転車関係の雑誌や書籍をみると、かなり「競技色」が強くなっているのがわかる。自転車による「旅文化」が大きく後退しているのです。列車の路線の3分の2が閉鎖され、鉄道と自転車のハイブリッド利用の旅も難しくなった。
フランク・パターソンももはやいない。名編集長ジャック・ククロスもいない。「サイクル・ツーリングは自分にとっての気晴らしで、トレーニングでもあるのだ」と語り、サイクリング車をかたわらに停めてパイプをふかす写真を広告に載せた世界チャンピオン、レジナルド・ハリスもいない。
自転車はどんどん工場が外に出て、英国内は空洞化して、ラレーもモザンビークなどで生産されていた。
大衆化→低価格化→趣味性の低下→趣味自体のグレード低下。こういう流れはバイクでもスキーでもあった。
そういう「時代の変わり目」を歴史的に見ると、今の日本の自転車も大きな節目にきていると思わざるおえません。伝統を絶やさないために旧世代は頑張らないといけない。