昨日、友人からSOSが入って、工具を持って自転車を見に行きました。まあ、まだそこへ立ち往生しているので、夕方、ちょっと動かして一番近い自転車店へもって行かないといけません。
なぜ?それはシマノ用の安物エンドの折れた部品のスペアなどはうちには一個もないからです。
シマノの部品、特に90年代半ば過ぎの物を見ていると、なぜか無性にイライラしてきます。「機械屋としての感性をさかなでしてくるものがある」ということでしょう。
その壊れて立ち往生している自転車ですが、ワイヤーの外側が縦に裂けて、変速がうまくゆかなくなっていました、そして変速の不具合から、経年劣化したフレームの変速器取り付けブラケットが折れた。
それを見ていると、さまざまなことが頭に浮かんできます。
「段数が他社のものは6段ですが、うちは7段です、あるいは8段です、9段です、、」
などと段数が多いほうが高級であると誘導しているマーケティング。変速段数が多いということは、さまざまな問題をはらんでいます。
まずギアの歯を薄くしないといけない。つまりチェンとの接触面積が減り面圧がたかまり寿命が短くなります。私は8分の一と呼ばれる厚歯のチェンを使った、50年~80年乗られた数十万キロ走った自転車を数多くレストアしましたが、磨耗によって走れなくなっているものはありませんでした。一方で歯を薄くし、チェンを薄くし、それをS字に曲げて乗っているわけですから、当然ピンははずれやすくなる。
私はシマノのチェンは何回か踏み切ったことがあるので(これはピンはずれでなく踏み千切った)あまり信用していません。シマノの内装ハブも、中心のサンピニオンの切ってあるシャフトが折れたり、遊星ギアを上り坂で粉砕したことが一度や二度ではないので、内装ハブもシマノは信用していません。
そのような多段化にともなって隣り合うギアの距離はたいへん近くなります。そうすると変速器を微妙に動かす必要がでてくる。
その時、フレームはしなってはいけない。かつて、フランスにカミン・アージェントという総アルミフレームの自転車が半世紀以上前に存在しました。3台ほど乗ったことがありますが、踏み込むと変速してしまうのです。フレームがしなうことを「ウイップ」というのですが、パイプの外径の細いアルミフレームはウイップが異常に大きい。これを避けるためにはものすごく太いパイプを使わざるおえません。
自転車のフレームで「剛性」がやたら叫ばれるようになったのは、フレームがしなうと多段化した変速器の性能が発揮できないから。そうすると、「塀のうえからセメントの地面に飛び降りているような、膝や肩に来るかたいフレーム」になってくる。
つまり、最近の過剰剛性のフレームのみなもとは行過ぎた多段変速にあると言えるのです。
変速器のシフト感覚を楽しむために自分の膝を壊すのではたまったものではありません。私は死ぬまでしなやかなクロモリ・フレームを用い、高剛性のフレームには乗らないつもりです。
エンドの変速器取り付けブラケットにしても、かつてのもののように修理が出来るクロモリではなく、パキーンと折れる、もろくて折れる弾性変形しない材質になっています。エンドだけを壊してフレームを守るというのかもしれません。
これは、しかし、こういう壊れ方は25年より前には考えられなかった壊れ方です。その折れた部品のスペアがあれば良いですが、「もうこのフレームのこのエンドはありません」と言われたらそれで終わり。自転車一台丸々買い替えでしょう。実際、何軒かで「この車種はもう輸入されていないから」と修理も一切断られたことが、別のトラブルであったそうです。
変速器のワイヤのうちがわには、螺旋状にコイルのような金属が巻いて入っていました。それだといくらかの伸び縮みがあるので、変速段数が増えるにつれ、ワイヤーまわりのわずかな伸び縮みも許されない。そこで、縦の細いはがねの金属の棒をならべてインナーワイヤーを包むようなアウターワイヤーにする。そうすると、「アウターワイヤーが経年劣化で裂けてくるという、かつては考えられなかった壊れ方が起こってくる」。それが今回のトラブルのもとだったのです。
さて、直結にチェンをして乗って行こうとしても、フロントの変速器の調整が狂っている。ワイヤーを交換しよう、と思ってグリップ部分を開けるのですが、まあ、ネジの小さいこと。このネジの頭が錆びたら開かなくなる。メンテ中になくしたら、こんなに小さいネジはそう簡単にありません。主要部分はプラスチックですから屋外使用、屋外駐輪で、紫外線でプラスチックがやられ、劣化したらパキーンと割れるでしょう。「それは寿命」なのでしょうか。
いずれの時もすべて総取替え。自転車でありながらまったくエコとは私には思えない。
そういうことは当然作り手も考えたでしょう。「それでよしとした設計思想が透けて見える部品はイライラする」。
私は本当にかつての「多様性があった時代に自転車を始められたことを幸運と感じます」。「自転車を趣味とすることはシマノを趣味とすることになったらつまらない」と私は思う。たとえば、全世界のゲームがすべて忍点堂のものしかなくなった世界を想像して見て欲しい。ゲームは所詮、人の作ったもののなかで遊ばせてもらっているわけです。私は自分の遊ぶものは自分で作ってきたので、そうした「わくのなか」をうっとうしく感じるのです。
あたかも忍点堂の新しい製品をまちわびるように、新しい変速器をまちわびる、、、のでしょうか?
「変速コンポーネンツなんて、所詮自転車そのものじゃないでしょ。」
と私はつらつらと思うのです。