書籍の仕事をしていた時、いかに『写真に写りこむものがプライスレスであるか』を思い知りました。
自然も建築物も変わってしまう。人も歳をとり、死んでしまう。
きわめて多くの要素がとりかえしのつかない消え方をする。
そうしたなか、一枚の写真の中に、三葉虫やアンモナイトが化石の中に取り込まれるように、偶然取り込まれる。
だから写真は面白い。一枚の写真の中に入っている情報量ははかり知れない。
どうも私にはそう考えると、世の中にデジタルだけでよいとは思えないのです。
古い写真が断捨離中にけっこう出てきまして、亡くなった人の写真はもはや2度と撮れない。消滅した風景も2度と写せない。
もし、アジェの写したようなパリ風景をもう一度セットで作って撮影するとなったら、1枚何億円かかるのか?何十億円かかるのか?写真にはそういう部分があると思う。
人間にいたっては絶対に不可能。また、その人のその年齢にその場所でということも不可能。
今日は一日自転車造りで疲れ果て、仕事のあと夜桜見物。あとはカメラ談義、写真談義でした。
左端はフランク・パターソン研究のただ一人の大御所だったゲリー・ムーア氏、彼も亡くなってしまいました。2枚目はヘンリー8世とその前の2人の王が200年以上かけて建てた建築ですからセットで作っても、CGで合成してもこういう迫力は出ませんね。ムーア氏が手にしているのはラッジ・ウイットワース。自慢の一台で、見せられたときは、ラウッターワーサー・ハンドルとかではないし、あまりピンときませんでしたが、今見ると唸ります。たしかに最初の最初のまだ固い線で描いていた初期のパターソンの線画でしか見たことのないハンドル形状とシルエットです。実車は彼のところでみたこの一台だけで、ほかの人が同様の車両を持っているのを見たことがありません。前後ともロッドブレーキなのにブレーキレバーがほとんど見えませんから。ずいぶん絶妙の場所に付けているのがわかる。3枚目中央は今から40年ほど前の五日市の眺望(キャノンFLレンズ、ちょっとしょぼい)。いまはビルがもっと見えるはずです。右から2枚目の輪友はみんな高齢で自転車を降りてしまいました。右端は19世紀~エドワード朝の小型蒸気式ロードローラー。右端のロードローラを写したカメラは私が持っている2番目に古い、80年以上前のカメラですが、もっとも写りがいいというのが逆説的です。ジャバラ式のZEISS IKON。