私のところの物作りの流れというのは「直列」なのです。私がチューブを曲げ、寸法図面を描き、パイプを揃えて、ロウ付けするだけにしてロウ付けの方に渡す。それが仕上がると、今度は私が塗装の職人さんのところへ持って行く。引き取りも同様です。
それにBBやヘッドを組み付け、部品を組んで、完成となる。常に誰かひとりがかかりっきりになっている。だからこそ、ある程度のコントロールが利くのだと思います。
フレームを塗師に渡す前に、私が耐水ペーパーで部分的に磨いだりすることもあります。色も最初の一回目が決まるまでは、自分が行って調合したりもする。
それが、「前回の◎▼の色と同じに」と言えば間違いがありません。それを新規に一斗缶を買って、一日潰して調色して、、、などとやれば、塗師も仕事のペースに差し支える。出来合いの色を塗るのでは、それは私の車輌ではなくなる。
これは部品でもそうでして、問屋に電話一本で注文できるものでない「古物」であれば、たいへんやっかいなものです。
画家の浅井忠は、画室に入る前は斎戒沐浴して、手を洗って入ったそうですが、「作るものに『邪気』が入らないため」には、その流れがうまく澱みなく流れなければいけない、と私は考える。
うちでポンチョの縫製をお願いしている方が、「心理的にとりかかれない時がある」というのは、よくわかります。「ユーザーメイド」で作ったものは、注文主は「すごく良くなることを期待して、内蔵工作を増やしたり、特別なことをやる」。しかし、嫌々ながらやって「10の仕事が出来る人が、7の力しか出せない」のをじつに良く見かけます。
大エンッオが、「自分は細かいことはとやかく言わない。現場の者に120%の力を出させること、それこそが自分の自動車の名声の秘密なのだ」とテレビインタヴューで語っていましたが、それは実に深い真実だと思います。
ですので、私は塗装に関しても、色が多少違っても、よほどのことがない限り、つつかえすようなことはしません。私が乗っている28号も、じつは色がちょっと違う。しかし、それも、ある意味で「焼き物は窯から出してみるまではどういうあがりかわからない」のと同じで、私はそれも受け入れます。「これより次回はもう少し濃くお願いします」とか言っておしまい。
そういうことを繰り返すうちに、安定し、作業をする人がのびのびと自然体になって、無心になったところで、きわめてすっきり・しゃっきりした、大当たりが出たりする気がします。
それを一回ごとにああでもないこうでもないと、気乗りがしないままにやらせて振り回していたら、逆に良いものは手に入らないと思う。回りを見渡して、うるさ型ほど、「はずれの車輌」、調子の悪いものに乗っている気がしてなりません。「ユーザーがこづきまわしたガリベン自転車」。
うちはそういう風になりたくありません。
週末に、バルケッタのトップチューブを二本づつテープでとめて、作業中に混乱しないようにして職人さんの手許へ渡したのですが、これは「曲げている時から、これはあのフレームの分になるやつ」と考えて曲げています。
なんでそんなことを書くかと言いますと、工房によっては右側のバックフォークのV字をまとめて作り、あとから左側のV字を作り、と数十本まとめて作っていたりしますが、右と左で全く違う職人さんのロウ付けに見える車輌というのをたまに眼にします。私はそれでは乗ってシャッキリしないのではないかな?と思うのです。流れ作業では「1台の総体としてのまとまりがつけにくくなるのではないか?」と思うのです。
週末にはフレームが何本か塗りあがりましたが、あがりは私のニュー28号より深みのある良い色だと思います。