昔、高校時代、フランスの文学を読んでいた時、現代国語の先生といろいろな話をしまして、その時読んでいた本はアルベール・カミュでした。その時、人間の「罪」に関して興味深い話が出ました。
ある人がお腹が痛いと言っていて、冷えたんだろうと思って温めてあげた。そして結果その人が死んでしまった。それは『冷さないといけない内臓の問題』だったとしたら、その人の責任はどうなるのか?という話題でした。
これはカソリック圏では温めた人が悪い。ルター派のプロテスタントであれば、善意を尽したのだから、それは両者にとって不幸だったということになるだろう、と言う議論でした。
さて、カミュの神のいない実存主義ではどういうスタンスを取るのか?というディスカッションでした。
これはたとえば、放射能汚染されたものを「食べても大丈夫、住んでも大丈夫」と言っていて、じつはそうではなくて、相手を病気にしてしまったら?その人の罪はどうなるのか?という話につながる。さらにすすんで、本当は身体に悪いと知っていながら大丈夫だと言ったらさらに悪い。
これはヨーロッパ、北米、南米、オセアニアのキリスト教徒から無神論の実存主義者から不可知論者まで、道徳的に許容されない。イスラーム教徒も許さないでしょう。日本のリーダーたちへの世界での評価が低いとか信用されないのはそのあたりだと考えられる。
このあたりの道徳的、宗教的な議論が、いまの日本の教育現場でなされることはありません。
今日のニュースも海外から見ると、2つの決定的な疑問があります。
かつては神だと言われていた人が、儀式によって死んだ人間を神にすることが出来るとされた。それがあるときを境に、自分はじつは人間だと言った。それでは人間が儀式によって死んだ人間を神にすることが出来るのか?そういう特別な方法が人間にあるのか?という議論が生まれてくる。
ヨーロッパではこういう討論、議論がさかんですが、それを他の文化圏のひとたちに納得させられるか?
そういうことです。いままた『道徳を特別な教科と位置づける』とこの国では言っていますが、その道徳というのは、いったいどういう道徳なのか?この国には「本居宣長のような道徳」をもったひとから、「荘子や老子のような道徳」の人、「儒教道徳」の人、「仏教の諸宗派の道徳」の人、「基督教の道徳」の人、「不可知論者、実存主義者の道徳」までさまざまな人がいるはず。果ては、核発電事故のあと、この国を家族と一緒に脱出した関係者や、汚職にまみれた政治家たちの道徳もさかんに眼にする。そういう人たちすべてを納得させる共通の道徳と言うのは存在しない。世界には異教徒を根絶やしにすることが善で勤めだと書いてある聖典もあれば、虫や小動物を殺すこともいけないとする宗教もある。
英語を小学校から教えても、そういう土台の議論をしない国際化なんてちゃんちゃらおかしいと個人的には思います。60年代、70年代育ちより国際化は大幅に後退するでしょうね。
信長はさまざまな宗教者たちを彼の前で議論、討論させた。「国際派だったな」と思う。一時は仏教者はスコラ神学で鍛えぬいた彼らの議論にたじたじだったが、最後、「仏に遭うたらそれがホンモノかどうか徹底的に疑いぬき論破を試みる」(「殺仏殺祖」という臨済録の言葉、ハビアンは臨済宗の禅僧からキリスト教徒になり、基督教を捨てた)という禅的な立ち位置をとる「ハビアン」に徹底的に宣教師たちがやられた。ジェスイット(イエズス会)は彼の本を読むことを禁じたほどでした。こういうことも日本の教科書は教えないようです。
そのくらいの基礎知識があって、英語で自在に議論が出来て相手を論破して、かつ聞いている人がなるほどと思うくらいならば、「国際化した」と言ってやってもよいと思う。
ある人がお腹が痛いと言っていて、冷えたんだろうと思って温めてあげた。そして結果その人が死んでしまった。それは『冷さないといけない内臓の問題』だったとしたら、その人の責任はどうなるのか?という話題でした。
これはカソリック圏では温めた人が悪い。ルター派のプロテスタントであれば、善意を尽したのだから、それは両者にとって不幸だったということになるだろう、と言う議論でした。
さて、カミュの神のいない実存主義ではどういうスタンスを取るのか?というディスカッションでした。
これはたとえば、放射能汚染されたものを「食べても大丈夫、住んでも大丈夫」と言っていて、じつはそうではなくて、相手を病気にしてしまったら?その人の罪はどうなるのか?という話につながる。さらにすすんで、本当は身体に悪いと知っていながら大丈夫だと言ったらさらに悪い。
これはヨーロッパ、北米、南米、オセアニアのキリスト教徒から無神論の実存主義者から不可知論者まで、道徳的に許容されない。イスラーム教徒も許さないでしょう。日本のリーダーたちへの世界での評価が低いとか信用されないのはそのあたりだと考えられる。
このあたりの道徳的、宗教的な議論が、いまの日本の教育現場でなされることはありません。
今日のニュースも海外から見ると、2つの決定的な疑問があります。
かつては神だと言われていた人が、儀式によって死んだ人間を神にすることが出来るとされた。それがあるときを境に、自分はじつは人間だと言った。それでは人間が儀式によって死んだ人間を神にすることが出来るのか?そういう特別な方法が人間にあるのか?という議論が生まれてくる。
ヨーロッパではこういう討論、議論がさかんですが、それを他の文化圏のひとたちに納得させられるか?
そういうことです。いままた『道徳を特別な教科と位置づける』とこの国では言っていますが、その道徳というのは、いったいどういう道徳なのか?この国には「本居宣長のような道徳」をもったひとから、「荘子や老子のような道徳」の人、「儒教道徳」の人、「仏教の諸宗派の道徳」の人、「基督教の道徳」の人、「不可知論者、実存主義者の道徳」までさまざまな人がいるはず。果ては、核発電事故のあと、この国を家族と一緒に脱出した関係者や、汚職にまみれた政治家たちの道徳もさかんに眼にする。そういう人たちすべてを納得させる共通の道徳と言うのは存在しない。世界には異教徒を根絶やしにすることが善で勤めだと書いてある聖典もあれば、虫や小動物を殺すこともいけないとする宗教もある。
英語を小学校から教えても、そういう土台の議論をしない国際化なんてちゃんちゃらおかしいと個人的には思います。60年代、70年代育ちより国際化は大幅に後退するでしょうね。
信長はさまざまな宗教者たちを彼の前で議論、討論させた。「国際派だったな」と思う。一時は仏教者はスコラ神学で鍛えぬいた彼らの議論にたじたじだったが、最後、「仏に遭うたらそれがホンモノかどうか徹底的に疑いぬき論破を試みる」(「殺仏殺祖」という臨済録の言葉、ハビアンは臨済宗の禅僧からキリスト教徒になり、基督教を捨てた)という禅的な立ち位置をとる「ハビアン」に徹底的に宣教師たちがやられた。ジェスイット(イエズス会)は彼の本を読むことを禁じたほどでした。こういうことも日本の教科書は教えないようです。
そのくらいの基礎知識があって、英語で自在に議論が出来て相手を論破して、かつ聞いている人がなるほどと思うくらいならば、「国際化した」と言ってやってもよいと思う。