何歳まで生きるか?というのはなんともいえない。30代で命が尽きてもラファエロやゴッホ、ロートレックのような人たちがいる。レオナルド・ダ・ヴインチですら60代までしか生きなかった。
それを突き抜けてのちの、安定した『おまけの楽しみ人生』が問題。
肉体的に長く生きて、生きがいがないのなら、体力もなく、これからのちの人生がどういうものになるかハッキリ見えるだけに、いっそうもやもや感がつのるだろうと思う。
そこで、いままでの若い頃からの『継続』してきた何かが『収穫』できれば、単なる長命でなく『長寿』に変化するのだと思う。
そこから逆算すると、若い人たちは20代、30代でそうとう馬力をかけないと、50代、60代でガクッとくる。いや、これはまわりでけっこうそういう人がいるのです。つまり、40台半ばをすぎて『逆転の可能性がないのがはっきり見えたとき、自分の人生に、これでいい、満足だ、というやすらぎのつりあいポイントがあるかどうか』。
私は若い頃は、なぜか自分が30代で早世すると考えていたようなところがあり、振り返れば、それがいまの余力になっていると思う。
今の自分はほとんどものを買いません。洋服は20代で祖父と父のツイードやセーターを引き継いだ。それに自分が英国にいたときにセーターは贅沢をしまくった。不思議なもので、その使った部分は、のちに羊毛や織物関係の人の仕事の手伝いで、投資した部分はほとんど戻ってきた。ここ15年、セーターはまったく買っていない。たぶん死ぬまで買う必要がないと思う。コーデュロイのジャケットはあってもいいと思うが、ツイードはたぶんいらない。それは次に英国へ行った時に買えばいいかと思う。
家具も買わない。時計ももう欲しくない。
食器と本はいまだに買っていますが、売ってもいる。つまり「砂を砂金に入れ替えている」最中。ここでも赤字は出ない。陶磁器の紅茶ポット数個とシェフィールド・プレートの紅茶ポットを売って、純銀の紅茶ポットに買い換えた。出銭はゼロ。ポット内の具合のおかげで湯が冷めにくく、純銀のポットは同じ茶葉がまったく違う味にはいります。
同じことは徳利にも言える。焼酎を水で割って一晩おくと味がよくなるように、日本酒も鉄分を多く含む陶磁器、それも表面がツルツルでない備前、信楽、伊羅保などのものに一晩置いて休ませると、焼酎以上に味が変わります。まれに飲み頃を過ぎた酒は磁器の鉄分からの弱い遠赤外線で酸味が増す場合がありますが、8割以上の場合、味が美味くなる。
それでどこへ行くにも自転車で健康がキープできて、美味くものが食べられれば言うことがない。体調が悪いと美味いものも美味く感じられない。
正直な話、一度そういう『あなごもり贅沢体制』を整えてしまうとお金を使わなくなる。
私の周りの友人たちにはそういうやり方を薦めている。だいたいそうなると一人1ヶ月10万円かからなくなる。それでいていいポットで紅茶を飲み、作家物の急須で無農薬の緑茶を飲み、美味い酒をいい酒器でのみ、いい自転車に乗り、いい服を着て信じられないくらい金を使わない。
こういう『ストレス落としの時間がうまくとれる生活なら病気になる確率も下がる』でしょう。
歳とともに増えた余力は趣味的な世界、あるいはやりたかった余技に集中する。これは『50代になってからの雪だるまの雪が付く量が大きく変わる』と思う。常日頃そういう関心を持ちそういう本を読み、生活をしていると、旅へ出ても吸収するものが違う。
健康であって、美味いものをたべ、いい友人に囲まれ、仕事もしくは趣味に生きがいを見出せ、いいもちものを毎日使う。これ以外に幸福の必要要素はなに?という感じがする。異性にモテルとか、この生活がつづけられるような社会と生活の安定、美しく豊かな自然。それぐらいでしょう。
それで趣味、仕事の分野で認められれば「自己重要感」も生まれる。自分もこの世の中で意味がある重要な存在なのだ、と思えることが大切。その先で、次世代の人たちと交流があれば、自分たちが果てたあとも、なにかがつながって行く。死ですべてが終ってしまうのではない。
高齢になってそれが見きれた人が長寿のめでたさにつながるのではないかと思います。
それを突き抜けてのちの、安定した『おまけの楽しみ人生』が問題。
肉体的に長く生きて、生きがいがないのなら、体力もなく、これからのちの人生がどういうものになるかハッキリ見えるだけに、いっそうもやもや感がつのるだろうと思う。
そこで、いままでの若い頃からの『継続』してきた何かが『収穫』できれば、単なる長命でなく『長寿』に変化するのだと思う。
そこから逆算すると、若い人たちは20代、30代でそうとう馬力をかけないと、50代、60代でガクッとくる。いや、これはまわりでけっこうそういう人がいるのです。つまり、40台半ばをすぎて『逆転の可能性がないのがはっきり見えたとき、自分の人生に、これでいい、満足だ、というやすらぎのつりあいポイントがあるかどうか』。
私は若い頃は、なぜか自分が30代で早世すると考えていたようなところがあり、振り返れば、それがいまの余力になっていると思う。
今の自分はほとんどものを買いません。洋服は20代で祖父と父のツイードやセーターを引き継いだ。それに自分が英国にいたときにセーターは贅沢をしまくった。不思議なもので、その使った部分は、のちに羊毛や織物関係の人の仕事の手伝いで、投資した部分はほとんど戻ってきた。ここ15年、セーターはまったく買っていない。たぶん死ぬまで買う必要がないと思う。コーデュロイのジャケットはあってもいいと思うが、ツイードはたぶんいらない。それは次に英国へ行った時に買えばいいかと思う。
家具も買わない。時計ももう欲しくない。
食器と本はいまだに買っていますが、売ってもいる。つまり「砂を砂金に入れ替えている」最中。ここでも赤字は出ない。陶磁器の紅茶ポット数個とシェフィールド・プレートの紅茶ポットを売って、純銀の紅茶ポットに買い換えた。出銭はゼロ。ポット内の具合のおかげで湯が冷めにくく、純銀のポットは同じ茶葉がまったく違う味にはいります。
同じことは徳利にも言える。焼酎を水で割って一晩おくと味がよくなるように、日本酒も鉄分を多く含む陶磁器、それも表面がツルツルでない備前、信楽、伊羅保などのものに一晩置いて休ませると、焼酎以上に味が変わります。まれに飲み頃を過ぎた酒は磁器の鉄分からの弱い遠赤外線で酸味が増す場合がありますが、8割以上の場合、味が美味くなる。
それでどこへ行くにも自転車で健康がキープできて、美味くものが食べられれば言うことがない。体調が悪いと美味いものも美味く感じられない。
正直な話、一度そういう『あなごもり贅沢体制』を整えてしまうとお金を使わなくなる。
私の周りの友人たちにはそういうやり方を薦めている。だいたいそうなると一人1ヶ月10万円かからなくなる。それでいていいポットで紅茶を飲み、作家物の急須で無農薬の緑茶を飲み、美味い酒をいい酒器でのみ、いい自転車に乗り、いい服を着て信じられないくらい金を使わない。
こういう『ストレス落としの時間がうまくとれる生活なら病気になる確率も下がる』でしょう。
歳とともに増えた余力は趣味的な世界、あるいはやりたかった余技に集中する。これは『50代になってからの雪だるまの雪が付く量が大きく変わる』と思う。常日頃そういう関心を持ちそういう本を読み、生活をしていると、旅へ出ても吸収するものが違う。
健康であって、美味いものをたべ、いい友人に囲まれ、仕事もしくは趣味に生きがいを見出せ、いいもちものを毎日使う。これ以外に幸福の必要要素はなに?という感じがする。異性にモテルとか、この生活がつづけられるような社会と生活の安定、美しく豊かな自然。それぐらいでしょう。
それで趣味、仕事の分野で認められれば「自己重要感」も生まれる。自分もこの世の中で意味がある重要な存在なのだ、と思えることが大切。その先で、次世代の人たちと交流があれば、自分たちが果てたあとも、なにかがつながって行く。死ですべてが終ってしまうのではない。
高齢になってそれが見きれた人が長寿のめでたさにつながるのではないかと思います。