昨日は夕方倉庫へフレーム小物を探しに行ったのですが、木箱の中に古い雑誌を発見。しばし杉浦民平氏の文章に読みふける。
今から40年ばかり前に書かれたものなのですが、これは今のことか?と錯覚してしまう。
彼は縄文時代の貝塚のあるあたりに住んでいて、まわりには東大寺の瓦が焼かれた釜跡がたくさんあった。散歩の人たちが「東」と書かれた陶片をひろっていたと言います。
1960年代に入ってから用水路をつくるのに耕地整理をするために表土をはいだところ、釜跡がたくさんみつかって、陶器の破片が出てきた。地元のアマチュア達が調べ、平安末期から鎌倉初期の釜跡があると推定されたのに、2~3日後に行ってみたらダンプカーなどにひっくりかえされ、赤土の中に砕かれた陶器が散らばっていた、と言います。
その地域の土地改良組合などが、そういう遺跡があるとなったら教育委員会のほうから工事中止の要請が来て、調査が終るまで工事が出来なくなるので、「何も知りませんでした」ということにして、大急ぎで窯跡も古陶器もこなごなにシャベルカーなどで掘り潰したということ。
同じ記事の中に、平安末期の仏像からなにからすべて消失してしまった寺の話が書いてある。その住職、酒は飲む、寺宝は売る、後家はたぶらかす、あげく火を出して平安時代の仏像まで焼失。ついには近隣の五十代ほどの住職の墓が盗掘され、骨董品として売ると一個90万円以上する黒い骨壷があらかた盗掘屋に掘りつくされてしまったという話。
後世から日本の経済成長期を振り返ると、世界歴史でも稀な拝金主義が横行した時代とみなされるのではないか。そういうなか、多くの人の目に付かぬように、50以上も核発電を作り続けた。
先日、丸善へ行ったら「失われた風景」の写真集がたくさんでているのに驚きました。どれもけっこう売れている。これは破壊される前の風景を知っている私の世代がけっこう買っているのではないか?私も4冊ばかり買って持っている。
一方、ボーナス時期にぶつけて11月末から12月初めに12冊ぐらい恒例で出ていた自転車のMOOK本が今年は1冊しか並んでいない。売れないのでこの自転車人口増加の中、書店から自転車コーナーが消えている。「読むに値しない」と判定されたと関係者はキモに銘じたほうが良い。なにせ311のあと一度も放射能の灰の降ったあとだから、自転車に乗るときはどういうマスクをしろとかという特集はしなかった。
これは311からしばらくたって、核発電に関してしだいに腰砕けになった仏教関係者も同様。「一方的に核発電を悪と決め付けるわけには行かない」という意見がでてきたわけですが、ウランは露天掘りをしているところがけっこうある。採掘者たちのウランを含む塵を吸い込んだ健康被害はたいへんなものです。しかも、事故が起こったあとの処理に関しても、融け落ちた燃料を取り出す具体的な方策もなく、一般公募で案を募るありさま。動かし続けるためにはそういう社会的弱者の犠牲が必要になってくる。そういう非人道的な装置は悪ではないのか?核の事故で苦しむのは人ばかりではない。海も山も動植物も一切苦しむ。「決め付けるわけにはゆかない」と言う仏教者は「大慈大悲一切衆生」という一言を知らないのか?これは沈黙を守るキリスト教関係者も同じ。大地も海も水も損なうなと聖書に書いてある。この3つを損なっている装置に対して発言せずなのか?
特定秘密法案と一緒にがんの患者の情報、統計を国が1元管理する法律もとりざたされたのに、そちらはどこも記事にしなかった。つまり、今後、関東・東北で放射能によって健康被害が大きく現われた時、統計数字をもとに糾弾することも、社会問題としてとらえ、民主主義的におおやけに議論することもできない。
『風評』の一言でかたずけられるのでしょう。数百年後、考古学者が「カソーバ」の放射能値を調べ、はじめて被曝量の大きさがあきらかになるのではないか?
企業というものが巨大化し、国と強烈なタッグを組むようになると、もはや個々人の意見や思いは反映されない。全体主義の危険として、『集中した権力をそれが労働者出身であろうと、庶民であろうと、大衆のために使うと言う保証は何もないわけで、そういう権力は出来る限り分散するのが、力を持った人間の心理を考えた上でも好ましい』と言ったのはバートランド・ラッセル。彼はその観点からナチスにもソヴイエトにも反対した。
いまや個人の1票より、巨大企業のご意向になりつつある。
海外で売る核発電の廃棄物は日本が引き受けるようですが、それはぜひ売り込んだアベ・ソーリの選挙区と輸出した会社の本社ビルの地下に貯蔵していただきたい。
今から40年ばかり前に書かれたものなのですが、これは今のことか?と錯覚してしまう。
彼は縄文時代の貝塚のあるあたりに住んでいて、まわりには東大寺の瓦が焼かれた釜跡がたくさんあった。散歩の人たちが「東」と書かれた陶片をひろっていたと言います。
1960年代に入ってから用水路をつくるのに耕地整理をするために表土をはいだところ、釜跡がたくさんみつかって、陶器の破片が出てきた。地元のアマチュア達が調べ、平安末期から鎌倉初期の釜跡があると推定されたのに、2~3日後に行ってみたらダンプカーなどにひっくりかえされ、赤土の中に砕かれた陶器が散らばっていた、と言います。
その地域の土地改良組合などが、そういう遺跡があるとなったら教育委員会のほうから工事中止の要請が来て、調査が終るまで工事が出来なくなるので、「何も知りませんでした」ということにして、大急ぎで窯跡も古陶器もこなごなにシャベルカーなどで掘り潰したということ。
同じ記事の中に、平安末期の仏像からなにからすべて消失してしまった寺の話が書いてある。その住職、酒は飲む、寺宝は売る、後家はたぶらかす、あげく火を出して平安時代の仏像まで焼失。ついには近隣の五十代ほどの住職の墓が盗掘され、骨董品として売ると一個90万円以上する黒い骨壷があらかた盗掘屋に掘りつくされてしまったという話。
後世から日本の経済成長期を振り返ると、世界歴史でも稀な拝金主義が横行した時代とみなされるのではないか。そういうなか、多くの人の目に付かぬように、50以上も核発電を作り続けた。
先日、丸善へ行ったら「失われた風景」の写真集がたくさんでているのに驚きました。どれもけっこう売れている。これは破壊される前の風景を知っている私の世代がけっこう買っているのではないか?私も4冊ばかり買って持っている。
一方、ボーナス時期にぶつけて11月末から12月初めに12冊ぐらい恒例で出ていた自転車のMOOK本が今年は1冊しか並んでいない。売れないのでこの自転車人口増加の中、書店から自転車コーナーが消えている。「読むに値しない」と判定されたと関係者はキモに銘じたほうが良い。なにせ311のあと一度も放射能の灰の降ったあとだから、自転車に乗るときはどういうマスクをしろとかという特集はしなかった。
これは311からしばらくたって、核発電に関してしだいに腰砕けになった仏教関係者も同様。「一方的に核発電を悪と決め付けるわけには行かない」という意見がでてきたわけですが、ウランは露天掘りをしているところがけっこうある。採掘者たちのウランを含む塵を吸い込んだ健康被害はたいへんなものです。しかも、事故が起こったあとの処理に関しても、融け落ちた燃料を取り出す具体的な方策もなく、一般公募で案を募るありさま。動かし続けるためにはそういう社会的弱者の犠牲が必要になってくる。そういう非人道的な装置は悪ではないのか?核の事故で苦しむのは人ばかりではない。海も山も動植物も一切苦しむ。「決め付けるわけにはゆかない」と言う仏教者は「大慈大悲一切衆生」という一言を知らないのか?これは沈黙を守るキリスト教関係者も同じ。大地も海も水も損なうなと聖書に書いてある。この3つを損なっている装置に対して発言せずなのか?
特定秘密法案と一緒にがんの患者の情報、統計を国が1元管理する法律もとりざたされたのに、そちらはどこも記事にしなかった。つまり、今後、関東・東北で放射能によって健康被害が大きく現われた時、統計数字をもとに糾弾することも、社会問題としてとらえ、民主主義的におおやけに議論することもできない。
『風評』の一言でかたずけられるのでしょう。数百年後、考古学者が「カソーバ」の放射能値を調べ、はじめて被曝量の大きさがあきらかになるのではないか?
企業というものが巨大化し、国と強烈なタッグを組むようになると、もはや個々人の意見や思いは反映されない。全体主義の危険として、『集中した権力をそれが労働者出身であろうと、庶民であろうと、大衆のために使うと言う保証は何もないわけで、そういう権力は出来る限り分散するのが、力を持った人間の心理を考えた上でも好ましい』と言ったのはバートランド・ラッセル。彼はその観点からナチスにもソヴイエトにも反対した。
いまや個人の1票より、巨大企業のご意向になりつつある。
海外で売る核発電の廃棄物は日本が引き受けるようですが、それはぜひ売り込んだアベ・ソーリの選挙区と輸出した会社の本社ビルの地下に貯蔵していただきたい。