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Channel: 英国式自転車生活
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「良い雲ですね」

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この頃はヒートアイランド現象で、にわかにかきくもって大雷雨ということがひのたまはちおうじのあたりではよくあります。

今日も帰り道、前が見えないくらいの雷雨になった。

慌てず騒がず、こういう時は雨宿り。風もけっこう強烈なのが吹いて、たてかけておいた自転車が倒れ、ダルシオのサドルにキズが付いた。

まあ、そういうこともある。

ベンチのあるコンビニの軒先で煙草で一服。

大型バイクのタンデムのカップルがたまらず避難してきた。けっこうな大荷物。

濡れた荷物を拭いて、荷仕度のやりなおし。バイクも自転車もこういうところは似ている。

あの荷物で、滝のような雨の中、2人乗りでスリックタイヤでは怖い。

タオルを買い、珈琲を飲み、雨が去るのを待つ。

こういうおおらかさがあるかないかが、4輪組と2輪組の大きな差だろうと思う。

「2人で2泊だと、もう、荷物が限界ですよ。」
2人ともリュックを背負っている。荷物を降ろして一段落。
「あの雲の具合だと、いまちょうど府中から国分寺の当たりでガラガラ・ピッシャーンじゃないかな?」
「今出ると追いついちゃいますかねぇ。」

雷雲の端が夕日に照らされて、龍のたてがみのようになっている。

カメラを取り出して写真を撮った。
「良い雲ですね。」
女性の方が言った。

雷の『乗り物』は雄大だ。

荷物が大きいので、彼氏のほうはバイクを押して歩道の敷石のわきにバイクを押してゆき、彼女は段差を利用して後ろへまたがった。

セル一発の野太い始動。彼女は手を振って走り去った。

2輪車の世界はすべてが一生に一度だ。自動車の箱の中の人たちにはわからない。

自転車の塗装

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30数年前の昔、JのMの親爺さんが面白いことを言っていた。
「それは、アナタさぁ、味のある塗装とか言うけど、偶然の部分も多分にあるんだよ。そぅ。スプレーガンで吹いているのがもう半分うまく霧が飛ばないようなのでやると、なんか人間臭くって良くなったりするもんなんだよ。フランスのなんかすごくムラんなってるもん。」

私は笑っていましたが、たしかにそう言う気がしなくもない。あそこの奥の鴨居にはフランスのA.S.がぶらさがっていたが、塗装はかなり甘かった。しかし、それも含めてヨーロッパのやわらかい手作り感がただよっていた。

英国のクロード・バトラーには『流氷がこまかく割れたような、クラックル塗装』というのがあった。誰ものちにあの塗装を再現した人はいない。

私はあれは『ハンマートーン塗装』を工夫したものではないかと思う。

仕上がりは違うけれど、ハンマートーンとちりめん塗装は原理は同じものです。私がいた会社は精密機械屋だったので、ハンマートーンや鬼ちりめんの塗装はたまにやっていた。あれは実に厄介なのです。揮発性の酸を使うので、あれをやると、他の塗っているものがすべて影響を受ける。

たぶん、クロードがクラックル塗装をほんの短い期間でやめたのにはそう言う背景があったのだろう。

クラックルのもの1台で、ほかの30台分ぐらいの金額をもらわないと、工場あがったりでしょう。

そんなことを書いたのは、うちへたまに来る熱心な若手に静電塗装の話を訊かれたから。

静電塗装を理解するには、工場の煙突から出る粉塵を電気的に吸着する『コットレル式集塵機』のことを考えればよい。

その集塵機の高圧電流発生装置を利用して、フレームに10万ボルトぐらいの高圧静電をかける。それに霧状に噴霧した塗料にマイナスの帯電をさせてフレームにむらなく吸い付けられるようにしていた。

それを赤外線乾燥機で乾かすと、15分ぐらいで焼き付けが完了する。

それが日本で使われ始めたのは昭和24~25年ぐらいのことです。

だから、その時代の実用車の、飴の表面の濡れたような、とろっとした塗装を剥離して、今の自動車用塗料などでガン吹きで塗ったら、味もそっけもないものになってしまう。

我々がたとえダメージがひどくてもオリジナル塗装を残そうとする理由はそのあたりにあります。

山羊が流行中

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私が小学生の時、親戚の農家に山羊がいた。

面白いな~~と感心しましたが、それ以後は動物園でのほかは目にすることがありませんでした。

ところが、この2~3年、けっこうひのたま地区で見かけるようになった。

不思議な連中で、なぜか当たり前のように居ると、こちらもああ、山羊か、で通りすぎる。

まったく当たり前ではないんですが(笑)。

そういえば、夕方野ウサギを見た。こけつまろびつヤブへ消えて行きました。英国のウサギと走り方が違うと思った。どこが違うのかわかりませんが、英国でもヘア(大型のウサギ)とラビット(小型のウサギ)は走り方が違うことが知られている。

日本のウサギは第三の走り方?「なんばはしり?」(爆)。

背伸びの危険

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昨晩、うちに二振りある練習用のものの刀身の長さを計ってみました。私は1本のほうが2cmぐらい長いのかな?と思っていました。たしかに鞘は2cmほど長かった。ところが刀身は4mmぐらいしか長くなかった。ビックリです。

たった4mmの差なのに全く違ったものに感じる。短いほうは空中に見えない鉄のレールがあるかのように刃筋が通る。もう一本は暴れやすい。どこで差が出るのかわからない。

そう考えてみると、外観から刀を判断するのがいかに恐ろしいことか。ましてや一度も柄を握ったことがない人が正宗がどうのこうのというのは、脇で聞いていてもかなり恥ずかしい。

「かわす能力がある人」は見えないレールがあるかのごとく思い通り正確に振れるもののほうが4mm短くても絶対に有利だ。

技のある人は外観からかなり見れるのだろうと思う。一般とは逆なのだ。

かつて古い建築材料の寸法直しを頼んでいたナイジェルと、入札市で古い家具を見ていた時、彼が、
「これは17世紀だって書いてあるが、これは19世紀の復刻だよ。」
「どうしてわかるの?」
「こういう切った感じに17世紀の製材用のノコギリではならない。それともうひとつ。ここへ金属の釘のかわりにテノン(木の箸を切ったような木釘)が打ってあるだろう?それが真円じゃないか。そんな丸穴をあけるのも、テノンを削るのも17世紀にはやっていなかったのさ。」

そのほかにも削って擦り減ったように見せかけるやりかたをしたものも、ナイジェルはみごとに見抜いた。

こういう時に、テノンのことを書きましたが、擦り減ったように見せかけることの詳細は書かないようにする(笑)。これは重要なことです。もう一つの記事の中の静電塗装のほうの、それでは塗装の霧状のものにマイナスを帯びさせるのにはどういう機械を使うのか?はあえて抜かしておく。

うちへ「リムのシールを剥がして組んでください」と言ってきている人がいる。やったことがある人はご存じだろうと思いますが、大変な手間です。なぜそうしたいのか?MAVICはダブルコンベックス・アイレットの発明者の名門です。なぜそれを剥がしたいのかわからない。第一志望がカンパのリムだったので、カンパでないからシールを剥がしたいのか?カンパのシールも剥がして無銘の正宗にでもするのだろうか?

リムにシールが貼ってあることには立派な理由がある。だから私は自分の乗る車両のリムのシールは絶対に剥がしません。この理由についてはブログでは書かない。

柳生石舟斎の兵法百歌に、
「兵法は隠し慎む心より まさる極意はあらじとぞ思ふ
 兵法を知りても知らぬ由にして 要るおりおりの用にしたがへ」
とある。

自転車のほうでも同じだと思うのですが、あまりに隠しておくと技も価値観も絶えてしまう。私はほどほどにリークする(笑)。平和の自転車のことですから。

ただし、相手により、たまに全部がはっきりするカギを渡すときもあります。それは誰が見ているかわからないネット上ではやらない。

下手をすると、28号を真似して、あげく、「うちのが本物で、R&Fは私に影響されていた」などと真逆の捏造をやられかねない(爆)。

明治時代には正宗は伝説で存在しなかったという説も出た。この件に関しては書き込み禁止(笑)。「争いごとは無用なりけり。兵法は器用によらずその人の こころにかけてたしなむにあり」。

「五常のこころなき人に 切り合い極意伝えゆるすな」昔の人はすごいことを言っていたと感心する。

一番重要なことをブログには書かないのは当たり前なのではないかな?極意は人を見て口伝でしょう。

今の時期の高齢者食

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だいたい朝はたまごとトーストと野菜・果物・ヨーグルト・プルーンのジュースなのは定番というか日課なのですが、夜はけっこう考える。昼は蕎麦だったりサンドイッチだったり。

この温度の上下と湿度で、やや食が細くなった感じがしたので、昨日はとろろにした。うちのとろろは変則的で、鰹節と昆布と椎茸でだしをかなり濃い目にとり、最高の味噌を足し、それでとろろを伸ばします。味の弱い感じのところは醤油を数滴ずついれて味を調える。たまごは一人分一個の勘定。

つまり、すごく美味いたまごかけご飯にとろろが濃厚に効いている感じとでも言うのか。

4年ほど前、「いやぁ、とろろは苦手なんで、ちょっとでいいです」と言っていた自転車乗りが3人来て、「いやぁ、これはいけますね」となんと一人がどんぶり2杯半も3人で食べ、炊飯器が空になった。何が苦手だ(笑)。

味噌は長野のものをよく使います。ひかり味噌の長期熟成とか戦国味噌とか弁天味噌とか、数種類を置いていてブレンドしたりしている。長野の味噌は昔ながらの塩の強いのもあるので、そういうのは薄めに使う。

すこし繊維質をとらせないと食が細くなっているのでいけないな、と今日はライス・カレー。

うちはカレーライスにもカレー粉やインスタントを使わない。インド式に作って、最終的にライスカレー用のカレーの味に作る。

高齢者用ですから、ニンニクなどは細かく微塵に刻む。火のかけ方が重要で、ニンニクの香ばしい香りが炒めている時にたちあがらなかったら、料理の修業が足りないと思うべし。これはインド料理屋へ入る前に香りで判断する時にも便利です。

上手く香りが出た時に、やはり高齢者用に細かく刻んだタマネギを入れ、しなしなになるまでとろ火で炒める。これはけっこう大量に使います。2人で大きめのタマネギ1個、中玉なら1個半は使う。

その同じ時に別のナベでニンジンを茹でておく。そちらには鳥のスープストックで茹でる。

炒めているほうのパンにひき肉を入れ、そこではじめてスパイスを入れる。インド式とはこの辺りの順序が違います。スパイスから香りがよく出たら、絶対に焦がしてはいけない。

パンのなかみすべてをニンジンをスープで茹でていたほうへ入れる。ここで刻んだジャガイモと、うちはズッキーニを入れる。ズッキーニを入れると、インドのダイコンや冬瓜をいれたカレーのような食感になります。

インド料理だとヨーグルトを足しますが、日本のカレーの味にするために、牛乳をヨーグルトの替わりに大匙一杯ぐらいいれる。入れすぎるとスパイスの香りが一瞬にして消えてしまうので注意。

鷹の爪2本ですから辛くないわけではない。市販のカレーの素にはコショウがかなり入っているので、あれの重い刺激が高齢者にはこたえる。うちは胡椒はほとんどいれない。

チャツネの甘さの替わりにきび砂糖をひとつまみ入れる。インドだとここからココナツパウダーを入れたりしますが、日本のカレーにするために、水で溶いたメリケン粉(古い言葉だ、世代がわかる、爆)を少しづつ足してとろみをつける。

スパイスの種類はあえて書きませんでしたが、察しの良い人はこれでツボはわかっただろうと思う。

じつはこれ、ネパール人のコック2人にふるまったことがある。彼らも気にいった。

うちの90にならんとする老母はインドの本格カレーも好きですが、梅雨の時期の疲れているときには、味の柔らかいこちらのほうが食が進む。

ささいなことですが、重要なことは、高齢者にペットボトルやドリンクボトルから水を飲ませてはいけません。誤嚥でむせる高齢者をずいぶん見た。うちではどんな飲み物でも必ず取っ手が両側についた紅茶カップで飲ませています。誤嚥は肺炎の元になりますから、これは家族が充分注意を払うべきでしょう。

100年経ってもこのとおり

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ちかごろものすごい錆び方の自転車をよく見ます。

昔はこんなにひどい錆び方をする自転車はなかった(左2枚、シートピラーなどは泥で出来ているのか?というぐらい)。

チェンでもフリーでも信じられないくらい真っ赤に錆びる。

鉄が悪い、メッキが悪い、表面処理が悪い、塗装が悪い。

あまりにこれでは、、と思ったのか『サビない塗装をした』と言うチェンまででている。

頼まれたラッジ・ウィットワースのハブのホイールが完成。

100年ほど前のハブなんですが、サビに喰われていない。むしろ味わいになっている。

メッキと言うのはそのためのものではないのか?

たぶん、フレームの塗装も、昨今の安物の塗装は下塗りもせずに塗っている。

資源の無駄遣いです。買って数年でゴミ。処分にもまたエネルギーを使う。

安物自転車を買う人はそう言うことも考えるべきだ。

1万なんぼで売れるということは、日本へ上陸した時の運賃込みの価格は2千円ぐらいということです。ハンバーガー屋のレジ打ちが、ガス・電気なし、材料なしで2時間で自転車一台作るようなものだ。

国産小型乗用車が36万円だったとき、自転車は大量生産をしても3万4千円ぐらいだった。高級自転車は16万円から時には38万円した。

現在の貨幣価値で考えれば、8万円前後でやっと「良心の最低レベル」ではないのか?さらにここに面白い資料がある。

宮田自転車の宮田栄太郎が昭和初期に英国へ視察に行った時の手紙が残されている。これによると、『小売の利益は1割5分から2割』が普通とある。

これを当てはめれば、自転車を21世紀の現在、1台売って1600円の利益とかで商店が維持できるのか?1か月に何台『数年後のゴミ』を売らなければならないのか。

そういう産業構造をおかしくする製品は売るのも買うのも慎むべきだと私は考える。

興味深いことに、最近自動車のディーラーがこうした安物の自転車の販売に手を染めるケースが目立つ。

たとえば、売りっぱなしの自動車を、小型自動車で20万円、2リッターのサルーンを30万円で売られたら自動車メーカーは困るんじゃないのか?だいたい、このくらいが昭和40年代半ばの日本の工場原価だった。だいたい、自動車の方が自転車製造よりはるかに昔から利幅が大きい。

自動車メーカーまでが安物自転車市場に出てくるのはいかがなものかと思う。

正念場ではないかな?

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ここ数日の当ブログを読まれた方は『一連の流れ』を感じると思いますが、手作りの自転車というのは『別カテゴリーのもの』ということが言えると思う。

ガン吹きでスプレーで塗っているわけだから、静電塗装や粉体塗装のようにはゆかない。何重にも重ねて塗るわけで、そのたびに乾燥工程が入るため、どうしても垂れた部分やひっつきの部分も出来る可能性がある。「ここ垂れているので塗り直してください」というのでは塗師も怒る。

それをそういうものだ、と理解し、それ以外の自転車の乗り味であるとか、そういうところに重きを置く人にしかハンドビルトのものはむかない。

大きな誤解が、ハンドビルトを求める、最近雑誌やネット上の情報で入ってきた人たちの間にあると思うのですが、それは、

「自転車はレゴのようには出来ない」、と言うことです。

逆爪のフレームに日本のフルチェンケースは付けられません。日本のフルチェンケースは正爪のトラックエンド用で、スポーツ車のロードエンドには付けられない。車輪が入りませんから。

フレームサイズ460mmでカンティブレーキを付けてくれという人がいた。通常付きっこないんです。振り分けワイヤーの引きしろがなくなるんですから。その人『私はそう云うのを見ました』と頑強にいっていましたが、たとえミキストでそれをやっても真ん中のバックフォークでやれば、ブレーキにかかとが当たる。

うちでやった下引き直付け以外に道はないし、そういうサイズでの製作例はうち以前にはない。それは本来たいへんな話で、『考案』と『試作』までが含まれている作業といってよい。バケツの水を右から左に移すような作業で、問屋に電話して部品を取り寄せてできる話ではない。

昨年、「AのCHIさんのところで作ったんですが、気に入らないんでキャンセルしました」という人が来た。

CHIさんもたいへんだったろうな、と同情を禁じえなかった。材料費を価格の半分ほど使い、100時間以上のただ働きになったわけですから。経済的にも、心理的にもそうとうなプレッシャーだったでしょう。

本来ならば、通常やっていないスペックのものをオーダーされたら、3台作らないといけないはずです。

一台は強度試験を通して、もう一台は試乗してテストして、不具合を見て、3台目を納品するのが理想ではないのか。現実、そんなことをやっているオーダーメーカーはどこにもない。「3倍です」とはみんな言えないでしょう(笑)。

「パラトルーパーを10段変速にして、山岳用に使いたい。泥除けも付けたい」という人が来た。

完全に『レゴ発想』のド素人考えです。リアを5段の変速にするだけでもたいへんだ。中央部のフレーム・ジョイントをわきに伸ばさないと変速器が折りたたんだフロントホイールの中にぶつかってからまる。変速ワイヤ~をどう処理するかの考えもない。フレーム・ジョイントをわきへ伸ばせば、こんどは膝がしらが金具に当たる。

そもそも山岳用のMTBは頑丈に出来ている。分割機構をフレームに持つ自転車を、大きい負荷がかかる山岳で使おうという発想が誤っている。

28号にチェンケースを付けて欲しいという人もあとをたたない。

5000ページにならんとするこのブログでチェンケースの付いた28号と言うのは1台もない。私がそういうものに乗っていたという事実もない。それにもかかわらず、どうしてそういう注文が来るのかわからない。多段変速ではチェンが左右に動き、またローの側では上へ行きトップの側ではチェンが後ろ下がりに下がる。それをクリアするようなハーフケースは馬鹿でかくならざるおえない。そういう多段用変速用の一枚チェンケースと言うのも市場に存在しません。

「上半分しか覆わないタイプでも無いよりはいいんでお願いします」と言うのですが、1960年代から70年代、よく見たあれが廃れた理由は、右のズボンのすそがギアの上の部分でチェンに喰われて、ギアとチェンにはさまれることがあり、そうするとハーフケースがあるためにズボンを抜くことも出来なくなり、自転車から降りることも難しくなる。たぶんそこまでは考えていないのだろうと思う。

だからあの手のハーフガードは、フランスでも1950年代後半から1960年代初頭で息絶えている。最後までやっていたのはプジョーの婦人車だった記憶がある。それも72年ぐらいまでだったのではなかったか?背景には女性はスカートでスラックスで乗るばかりではないから許容範囲と考えたのだろう。

量産車でガード付きリア変速器式があるのは、数万台規模で量産するからできる。それがカッコ悪いからもっとカッコ良いものをオーダーでというのは無理がある。

もし、ズボンをかまれて抜けなくなり、それでアタフタしているところへ、後ろから自動車に引っ掛けれた時は、注文者と製作者とどちらの責任になるのか?そういう人は、耳年増の部品の知識だけ先へ進んだ限りなくシロウトに近い人だから、『製造物責任』とか言ってきかねない。

大御所、マイク・バロウズも多段変速が中に内蔵されたフルチェーンケース付きの自転車を台湾の会社に提案したが、ついに生産されることはなかった。世界最大のメーカーでもどうにもならなかった。

技研にいた故井上重則さんもそうとう苦しんだあげく西陣織で布のチェンケースを作りましたが、通常の多段式にはできなかった。プーリーが一つしかない変速器を使っていた。あれはチェンがコマ飛びする。苦肉の解決策といえる。それでもそうとう大き目だが、これがもしプーリーが2つある通常の変速器ならケースは巨大な物になる。このシングルプーリーは力をかけるとチェンがコマ飛びするので、現代の普通の変速器に慣れた人には使えないと思う。

『客の言う通りに作る』というのは、80年代から90年代にかけて、MTBなどの新興勢力に押されて、喰えなくなった一部のオーダーメーカーが「どんな面倒なことでもやります」と始めたことにすぎない。

これは微妙な問題を含んでいて、ひとつのオーダー車は注文主の自転車であるとともに、製作者のものでもあるわけです。顧客の注文通りカッコ悪いものを作ったら、『あそこの自転車はカッコ悪い』となる。

それを気にしないビルダーもいるし、気にするビルダーもいる。

いま、ものづくりとか言われていますが、いざ、始めてみると若い人たちには仕事がなかったりする。自転車という業種自体が、利益面で余裕がない。石にかじりついて頑張っている団塊の世代が一斉に抜けたらかなり大きな変化になるのではないか。

1960~1970年代、スチールのオーダーフレームで壊れるものもずいぶん見た。私はとても1年2年3年のビルダーに溶接をまかせる気になれない。あまりに怖い。イタリアで修行した某ビルダーさんも使用人の溶接の選手のフレームが壊れた時があって、すべての人を解雇して、自分一人で再出発したことがありました。規模拡大はハンドビルトの性質に本質的に合わないと私は思う。目が届かなくなる。

また、ハンドビルトと言えども、量産品のパーツの一部を流用しているわけで、その部品を『流用・転用不可能なスペック』で大勢が作り始めたら、そういうビルダー志望の若い世代も動きようがないだろうと思う。部品のスペックがほぼ同じになったら、より手間のかかるスチールフレームで労働賃金の安い国の製品と競争することになるわけですから。それを真っ向勝負を嫌って1960年代、70年代の部品でやろうというのは、半世紀も前の部品で新品を作ろうとすることになるわけで、とても通常の製品にはなりません。

円が強くてウハウハじゃ

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自分の輪行用の部品を強い円で買いまくり(笑)。輪行する時、マファック型のブレーキは引っかかるのです。そうかといってV型はリムへの圧力が強すぎる。台座への反力が大きすぎて、フレームがしなったりろくなことにならない。

適当な落としどころは無いかな?と見ていたら『マイティ・ハーキュリー』を発見(明智君、この謎がとけるかな?)。即ゲットです。

円高のおかげで現行部品より安い。このくらい円が強いと自転車趣味の人は活気づく。

私はコンペとかCLBのほうがマファックよりいつも好きだった。利き方が好ましい。

このブレーキはシューもワイヤーも汎用品が使えるので、今後もスペアに困ることはありません。

同時に古いチューブラー様式のWOのリムも手に入れた。これも私は好きな部品。軽いし、乗り味にバネ感がある。ただし、ビギナーや握力がないひとにはパンク時にタイヤが外せないと思う。

年取ってからスペアや後々のメンテにわずらわされたくない。円が強い時にこういう部品は確保。

一目見てピンと来ない人は、何の部品かは気にしなくてよいです。

七夕

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今日は七夕。今日の日の出はけっこうきれいでした。

夜は星が見えるでしょうか。

いつものごとく、明け方老母の車椅子を押してトイレへ連れて行き、そのあと顔を洗って朝の稽古。天気が悪ければ漢籍を読む。そののち神棚、仏壇の水とお茶をかえ、自分のお茶をたてて一服。

気分が向けばPCを開く。気がむかない時は夜まで開けない、2日間開けないとか。

5時ぐらいの遅めに(鳥としては遅い)コジュケイが鳴く。

日々同じ繰り返しのように見えて、繰り返しでない。

自転車制作以外のストレスはない。

これでたまに、一瞬の判断の手軽さで、輪行用自転車で遠くへ出かけられたら申し分ない。

毎日の生活から離れず。それでいて、たまにまったく違う世界へ一日気まぐれで出かけてみる。

学生時代、学校をさぼって、たまに反対方向へ行く電車に乗ったりした(笑)。

教科書を持って田圃の中や山を歩くのはまた一風変わっていていいものだ。

この歳になって、同じことを自転車でやってみたいと思っている。

Escape from the ordinary.

死に金使い

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このところネットのページのあちこちに『1日30分で年2億ですよ』という広告が出てうざい。

これはまともな頭で考えれば、蕪をやっている人が全員一日30分で2億円儲かるわけはないわけで、誰かが常に損をしている。

もう、その広告の顔を見るだけで不愉快。

私は思うのだが、このところ貨幣価値が国と国の間だけでなく同じ国の間でずいぶん差があるのを思う。

現実の話、ずいぶんお金を持っている人が、死に金を使って、さして良い生活をしていなかったりする。

コンピューター・ゲームの勝ち点をあの世に持ってゆくことはないわけで、すべては抽象的な数字に過ぎない。

私が見るのは『その人が金をどのくらい持っているかではなくて、使い方』だ。

古いヨーロッパ映画をみると、彼らが考える『良い生活』が垣間見れる。アメリカ映画も同様だが、現代日本のそういう生活のお手本はどこで見られるのかな?と思う。

ディヴィッド・スーシェのポアロやジェレミー・ブレットのホームズに出てくる家やインテリア、そこの人たちの生活がいい、と憧れる人の話はよく聞く。日本の刑事もの犯罪ものの番組の中の家やインテリアがよいという人の話を聞いたことがない。

昔、いつも真っ白な顔をしてテレビに出ていた化粧品の関係の方がいましたが、あの方、白亜の御殿をたててほどなく世を去られた。正直なところ、有名人の豪邸を見ても、うらやましいと思ったことが一度もない。

この間も、2年ほど勤めて400億円ぐらいもらって辞めた人がいましたが、さて、どのくらいの仕事が出来る人なのか?組織であげている業績のなかでの個人のちからは評価しづらい。また、どんなに能力があっても環境の歯車とかみ合わなければうまくはゆかないだろう。

もし信長が現代に生まれていたら、社員旅行で幹事の用意した魚料理が生臭くて不味いと、部長を蹴って眉間を柱にうちつけたりして、ネットのニュースを騒がしたに違いない。

バグの修正を地味にやっている技術者や、電話応対の良いオペレーターも、すべてがいて、カリスマ的経営者の存在が許される。現代日本では、アメリカ型のケーキの一番上の飾りを食べるような金持ちのありかたが尊ばれるように思う。しかし、それは、他の多くの人の努力の吸い上げの上に成り立つ搾取的な豊かさだろう。

私の友人でも、ソフトの開発の下請けでPCの見つめすぎにより片目を失明したひとがいる。「ケーキの飾りを食べる人たちに、視力をやられるほど激務な人はいない」。

昔、フルッチョ・ランボルギーニが日本へ来た時、本田宗一郎に会って、『彼は最近入った社員と同じ作業服を着ているんだ。俺もああいう経営者になりたい』と言った。どうも、そういう日本の底力の裏づけとなっていたものが崩れつつあるようだ。

やがては一攫千金を狙う?そういう連中が金を持っている社会は未来がないだろう。宝くじ社会だ。

金は経済の血と言われる以上、金はヴイジョンとティストを持った人が持つべきだ。

緑のライン

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昨晩はよくカエルが鳴いていました。

多摩のあたりはこのところアマガエルが多い。あと、ドブ川状態になったところや、町田の野津田のほうはボーッ・ボーッとウシガエルが鳴いている。

ウシガエルは外来種で、かなり環境を悪くする。虫や小動物がみんなやられて在来種がいなくなってしまう。

なぜか、町田市の公園の中の池には大量のウシガエルのオタマジャクシがいても、駆除しようとしない。あのあたりは珍しいアカガエルがいるというのに、そう言うことを知らないのか?トンボのヤゴなども根こそぎやられる。

じつはウシガエルはアカガエルやアオガエル、トウキョウダルマガエルなども食べるのです。

多摩のあたりは、まだ用水路の土手が泥のところにトウキョウダルマガエルが生き残っている。アオガエルが増えた背景は、手に吸盤がなく、体重も重いダルマガエルはセメントのU字溝やそのところどころにある、ゴミフィルターの鉄格子を登れないのだろうと思う。

昨日は四方を泥の土手で囲まれた田圃で力強いトウキョウダルマガエルの声が聞こえた。

「昔取った杵柄」で、暗闇でも彼らの存在がわかる(笑)。このあたりにはなぜか田園少年をあまり見かけません。

天気が悪い日は

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雨の日に行きたくなる喫茶店というのは貴重だと思いますが、このごろは、雨をおしてでも出かけて行くだけの『引力の強い喫茶店』はあまりない。

インテリアが良いとか、家でははいらない味になっているとか、家に居るよりスカッと気が晴れるとか、そういう場所が激減している。

自分でお茶を点て、ベランダで雨を見てお茶。それで充分な気がする。

『自転車に積んでゆくのに割れても良いようなもの』と、2枚で100円で買った皿が、意外に使い良くて重宝している(笑)。

たぶん、作った人が『自分で使い良いこと』だけを考えて無心に出来た部分があるのかもしれない。

或る名刹の大僧正がお墨付きを与えた陶工の伊羅保の茶碗のわきに置いてもあまり違和感がない。

道具と言うのは不思議なものだと思う。

センタープル・ブレーキについて

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このところセンタープルブレーキが付いた車両を見る機会が減りました。

私は嫌いではない。ブレーキまわりがコンパクトに見えて、まとまりがスッキリする。

最近使用例が減った理由にはいくつかあると思いますが、ライバルであるカンティ・ブレーキがじわじわと性能を上げてきたこと。

1960年代、70年代には英国のレジリオンはすでに製造は終わっていましたから、ほとんどのカンティ・ブレーキは利きの面でセンタープルにかなわなかった。

それの旗色が悪くなった理由の最大の点は、メーカーにとっては、取り付けのためのシートステーブリッジのあおり止めや貫通穴の補強工作などにコストがかかること。またダブルピボットのサイドプル・ブレーキに比べて、アウター受けの吊り金具などの部品点数が多くなり、ドロヨケを付ける時にも、カンティ・ブレーキのほうがとりつけが容易だからということがあるだろう。

さらにいうと、センタープルは「リムを中心として発想されているブレーキ」なので、カンティ・ブレーキのように、どんどんタイヤサイズを太くしてゆくようなことが出来ない。

一般的に、今手に入るセンタープルブレーキで、700Cの場合は、35Cぐらいでもはやドロヨケを入れるスペースはギリギリ。38Cではドロヨケは入らない。

かつてのセンタープル・ブレーキは『泥除けを入れることを想定して、後ろのブレーキのアームを長くしていた』。それが70年代に、生産合理化のため、前後同一のアームの長さになり、『後ろ用のセンタープルブレーキ』というようなものは姿を消した。

じつは28号車の一号車は、この点しくじっている。本当は古いワイマンの『ヴァンカー999』の前後違うアームの長さのセットを付ける気でいた。それならすんなりと泥除けがつく。

仁さんが前後同じサイズの現行品のサイズに合わせてブリッジ半径を出して溶接してしまった。それも、26インチの長いアームのセンタープル・ブレーキならまだ自由が利くのだが、27・700C用だともう自由がきかない。

「あれっ!これショート・アームのブレーキであがってるよ。」
「あっ!そうか、古いの使うとかいってたね。大丈夫ですよ、泥除けすこしつぶせば。ィーッヒッツヒ」
「誰がつぶすんだよ。」

結局、アルミをつぶすのはやめて、ブルーメルのセルロイド・マッドガードのつぶさないといけない部分に熱湯をかけてカタチを出した。

もうひとつの問題は、センタープル・ブレーキは、ブレーキ・シューがすり減って来るとだんだん接触面が上へあがってくる。

気が付かないで使っていると、ブレーキシューがタイアサイドをこすってバーストする場合もある。なので、センタープルは、その利き味が好きで使う通向けと言えると思う。

古い車両でセンタープルが付いていたら、この記事の図をみて、ブレーキシューがタイヤにこすっていないか、引きしろが大きくなったら点検することが必要です。

ツール2016

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何気にツール・ド・フランスをインターネットで見ています。

なんというのか、私にとっては『大相撲』を見ている感じ。あまりアツくならず、誰が勝っても気にしない。淡々と観る。

観ていて気になるのは3つぐらい。

「ヨーロッパのなんと人工建造物の見えない場所の多いことか!」
ガードレールすらない。無駄な標識も少ない。遠景で風景を写して醜悪なセメントのビルとか橋がない。町の中の光景も、上空からの都市も、半世紀前のツールの映像とほとんど変わらない。

うらやましい。日本ではあんなフィールドはあの長距離でとれません。

「乗車フォームはメルクス時代からそれほど根本的に変わっていない。先頭集団の全員の腕が、終始肘を軽く曲げて乗っている。曲がっていなければ上半身筋肉群が有効に活用できないから。日本のように『大きく乗る』とか言って腕を伸ばし切って張りついた感じの選手はいない。」

「フルームのあの下りのフォームは新しい(笑)。パンターニはやはり空力を考えてサドルの後方に腰を落としていましたが、あれは何かあった時、車両が操作できないでしょう。しかし、フルームの股間がステムに来るあの乗り方も怖い。何かあったら飛び込み前転。」

見出しに『フルーム式の下りで速くなる』という特集が組まれることはなさそう。

ジョン・メイジャーが首相時代、ずいぶん先を見て、自転車ルート整備、ヴェロ・ドローム建設など、自転車競技の発展のタネを彼は蒔きましたが、ここへきて英国から強い選手が出てきているのは、あの時代の果実がみのってきているように見える。ロンドンの都市自転車交通システムを考えるための委員会のメンバーの一人はあのクリス・ボードマンですから。どこかの国の「有識者」とはずいぶんレベルが違う気がする。

歯痛の熊

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クマはすごい力があるという。バーンと平手打ちされると骨が折れるくらい。爪も鋭く、牙と噛む力もスゴイ。逃げてもむこうは足が速い。木に登っても木登りは上手だし、川へ逃げても泳ぎも巧い。何年か前、瀬戸内海をゆうゆうと泳いでいるクマが目撃されている写真付きニュースを読んだ。

まったく手におえない相手ですが、彼らも自然には必要だ。英国人は日本へきてまだクマが存在するのを知ると、たいへんうらやまがしがる。英国ではとうの昔に絶滅してしまいましたから。わずかに家紋にその姿をとどめているにすぎない。

10年ほど前、英国からの友人と諏訪へ行った時、裏山を真っ直ぐ登ったその友人は『クマを見た』とたいそう喜んでいた。諏訪のあたりにもいるんだとちょっとびっくりした。

私は日原の先で見たことがある。ちょうどその時はアメリカ人の友人と山歩きの途中で珈琲を淹れていた。10mぐらい離れたところで小さい枝の折れる音がした。
「誰かいるのかな?シカかイノシシかな?」
「クマかもしれないわね。むこうも人に出くわせば驚くんだから、音を出して、こっちはここに居るというのを、顔を合わせる前に知らせたほうが良いわ。」

彼女、ミネソタの湖のほとりに土地を持っていて、山小屋を建てて住んでいる。庭にデカいクマが出るので慣れたものだ。

琺瑯のカップとかをすこしわざとらしくカラカラと音をたてると、枝を踏む音が大きくなって、ざわざわと立ち去ってゆく音が聞こえた。黒い後姿が見えました。1mちょっとぐらいあった。イヌのデカいような、オヤジっぽいというか、デクデクした感じでした。不思議な生き物だ。

しかし、アメリカもフロリダのほうは『ワニのピンポンダッシュ』(待っているのだからダッシュじゃないのか、笑)があるし、北の方はクマがいるし、たいへんだ。クマも玄関で伸びあがってピンポンやりそうな気がする。

英語だと『歯痛のクマ』と言う表現がある。機嫌が悪くて危険な人物の表現に使う。

先週の私はまさにそうだった。チューブを曲げたりいろいろやって、歯をくいしばって、寝ている間もギリギリ噛んでいて歯がボッキリ折れた話は書きましたが、どうもヒビが入っているらしい。干物とかには焼いても雑菌もあるらしく、その折れた歯が猛烈に痛くなった。

対策は、歯医者に行く(笑)、でしょうが、たぶん『ああ、雑菌が入って炎症を起こしているんですね。抗生物質を出しておきますから、炎症がおさまったところで抜歯しましょう』となるのではないかと思う。

ならば、とニンニクを4欠片を微塵に刻み、タマネギを4分の1刻み、豆苗とピーマンを炒め、そこへ茹でたスパゲッテイを入れる。

食べて20分ほどで痛みが和らぎ、2時間後にほぼ痛みは消えていた。

じつはこれはアデンブルック病院の看護婦から聞いた「ニンニクには抗生物質並みの効力がある」という話の応用です。ニンニクはあなどれない。

しかし、歯痛1本でこの世の終わりぐらい滅入り、気分も荒れるわけですから人間は弱いものだ。これがどこか内臓とか関節とか、痛みが消えずに恒常的にどしようもなく痛いのであれば、毎日は憂鬱だろう。

貞無・腐施院は政敵の歯をすべて抜くようなことをやったというのをニュースで見ましたが、どういう背景からそうしたろくでもないのが出てくるのか。

戦乱もなく、平穏に、死ぬまでたいした痛みもなく生きたいと思う。

喋り方を感じること

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ゑげれすの首相が芽伊さんになりましたが、う~~~~~ん。

私はあの人の喋り方がダメですね。なんだか、どこかに『誰かを演技しているような、ひとりの政治家を作り上げてそれに自分がなろうとしているような、作りものめいたものを感じる。

ロナルド・レーガンもそう云うところがありましたが、彼はさすがにハリウッドの俳優だっただけあって、化け方はみごとだった。

彼女、伊須羅武法と英国の法律の、2重問題に関して、かなりおかしなことを言っていたという印象がある。「英国人は伊須羅武法に学べといわんばかり」だった。

ガリベンの机上論者なのではないか?

亀論さんは「追及、糾弾する時弁舌がさえるタイプ」なので、リーダーと言うよりは批判者として存在価値を強める人のように思う。

しかし、隣国は栗筋屯と虎ん腑の2人しか選択肢がないというのも悲惨ですな。どこかの極東の国は「2大政党制がさも良いもののように放射能事故の前までは言っていた」。

くだらない病米理科かぶれの論説だと聞いていましたが、その国も栗筋屯と虎ん腑かの選択と同じぐらい不毛だった。

栗筋屯がなっても虎ん腑になっても、どちらがなっても日本には厳しい時代になるでしょう。栗筋屯は親宙獄ですから。

親宙獄の亀論さんが辞任したので、その点はよかったのですが、芽伊さんはねぇ~~。

世界的に人材不足の感じがするのが不思議です。

まあ、どうでもいいや。福島の時、爆勝ちさせて政権にあった連中のダメっぷりが白日のもとのものとなったわけですが、誰が爆勝ちさせてたんだよ、という感じです。私は入れてない。

『選ぶ人たちの意識の高いか、低いか』は決定的に効いてくる。意外に『感情的にいれる人が多い』感じがする。震災の前爆負けしたほうに「ざまーみろ」と言っている人がたくさんいたのでけっこうビックリした。

たぶん、同じようなタイプの人たちが今回の大勝の背景にあったのではないかと言う気がする。

しかし、べ―サンの付録のキリトリ線みたいな喋り方も気になって仕方がない。芽伊さんとは別の意味で聞いていてこのごろはイライラすると言うか、むかつくと言うか(笑)。

修正を禁ズ

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いやSEN-虚のポスターを見ていて、デジタル修正しまくりなのがずいぶん気になった。

仲間で写真学校で教えているのがいますが、料理の写真はうまそうに見せるため、色を塗ったり、焼きたての感じを出すのに、てりを出すニスを塗ったり、撮影後のものはだいたい食べられないのだそうです。

SEN-虚の写っているのもあとで食えないのが多いのではないか?(爆)

リンカーンは人はある程度の年齢になったら自分の顔に責任がある、と言いましたが。修正しまくりというのは、そこに何か不都合なものがあらわれているのか?

なかには、「ここまでやったら別人だろう」というのもあった。

テレビで見ると水木先生のマンガにありそうなかんじに目の周りがたれ、身体も釣鐘体型なのに、「いったい何年前のイメージだよ?」と、ディヴイッド・ハミルトンのソフトフォーカスみたいに写しているのがあった。

ある種の判断材料をyouケン者から隠しているのではないか?もはや若々しくない事実も、その目付きも。

いつも考え事をしている感情のひだはやがて、表情にうっすらとあらわれて、そういう内面に顔が刻まれてゆく。だからリンカーンは『自分の顔への責任』を言ったのだろう。

よくみると面白い。いつも病米理科の犬になろうと考えている人は、やはりバセットハウンドみたいな顔になって来る。

SEN-虚のポスターは公平性のために、『候補者は運転免許証用の機械で撮影した写真をポスターに使わなくてはならない』という風に定めたらどうか?(笑)

運転免許用の撮影機械の質もそうすれば向上するだろう。

『ただし、エンジェルのように党首の顔をプリクラでまわりに散らすのはこれを許可す』(爆)

こけしの旅

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インターネットが通信に盛んに使われるようになって20年弱。ずいぶん人々の『こころ』を変えたと思う。

高校生の頃、ゴッホの書簡集と、芥川龍之介の書簡集を青い布表紙の新書版の全集で読んで、書簡の面白さに目覚めた。昔の人の書簡集からその人の日常生活、精神生活、さらには制作、創作の秘密にまで触れることができた。

あるいは歴史上の出来事にその人がどういう風に感じ、どのようにとらえていたか?までつぶさにわかる。

残念ながらメールの発達により、今後、そういうものがすべてなくなってゆくだろうと思う。人によっては生まれてから死ぬまでに一本の手紙も書かずに終わる人も出るに違いない。印刷の年賀状などは手紙のうちにはいりませんから。

コンピューター上では、どうも多くの人が「気が緩む」らしい。『ネット人格』などというのもそのひとつでしょう。その人の日常生活の人となりとはまったく別の顔が出ている場合がある。

私なども、ネット上の議論だと『まったく手加減しないで、叩き潰すまでやる』傾向がある。

『おかしな言説をあやふやに放置しておくと、先へ行って大きなボタンの掛け違いになる』のを、人生で多く目撃した。これは哲学・宗教から、自転車のサドルの手入れに至るまでそうである。

年配の人は覚えていると思いますが、荻窪のパターソンズ・ハウスの太宰さんはBROOKSのサドルを今から半世紀ほど昔、店先で叩いてみせて、『インドを通過してきた乾いた音です』と言って、裏からグりスを塗っていた。私は『なぜ、プルーファイドでなくグりス』なのか合点が行かなかった。

のちに、東京オリンピックの時、自転車のチームのパドックを、日本の関係者がスパイ撮影したアルバムを見た、そのなかの一枚が秘伝のごとく誤り伝えられたのが始まりだろうと思う。

そのころのまわりの友人、先輩たちのブルックスで、『裏から塗ったことのないサドルはどれもたいへん乗りやすかった』のを覚えている。『つるっと滑りこんで心地よいくぼみに落ち着く感じ』がした。ぺダリング中でも滑りが良くサドルが邪魔にならない。ところが裏から塗ったサドルは滑りが悪く、せっかくの形状が壊れて、だらしなく丸っこいカタチになっていた。

裏から塗ったものは表面が艶消しのようになってくる。たまに表から塗ったものはべっこうのように、瑪瑙のような革本来の素晴らしい色になって来る。

太宰さんは自分のところのブランドを「PH」と言っていましたが、これは彼が英国のパウエル&ハンマー、「PH」を知っていてのことだと思う。英国ではPHはルーカスと並ぶ自転車用ランプの名門です。彼は自転車の部品の輸入会社に短期間いたことがあり、バーミンガムへ行ったことがありましたから。

実際にその当時のブルックスのサドルオイルの缶には『裏から塗ってはいけない。少量を表から塗れ』とはっきり書いてある。

ブルックスのサドルは水に浸しこんだ平たいものを、金属の型の上に置いてはさみこんで圧力をかけて、特別な機械の中で乾燥させて、湿度を10%以下になるまで乾燥させている。「船でインドを通ってきた乾いた音」は関係のないことだ。つまり裏から塗って湿らせるというのは、『カタチを整える前の状態に、水の替わりにワックスや油で戻してしまう』ことにほかならない。ならば『ブルックスはカタチが良くて乗りやすい』ということを否定していることになる。

『インドを通過してきた乾いた音』、、、私はインドに住んでいたが、たいへんな湿度の高さです。スコールは前が見えないほど降るし、洗濯ものは湿度のために乾かず、ほしておくとカビの黄色い斑点がかわく前に出来るほどだった。

こうして書いていても、どんどん手加減がなくなってゆく(笑)。

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さて、今週は前半にヨーロッパの女友達からメールが来て、いろいろあった。日本へ来るというのですが、いろいろと頼まれて私がかわりに手配したりしたことに関して、『何を勝手なことを言っているのかな』とメール上で言い合いになった。

「だいたい、オレの妻でもないし、、」という感じで手加減無し。むこうも「これ以上メールの応酬を続けたら4分の1世紀の交友が終わる、、」と思ったのかもしれない。突然、「completely different topic !」とこけしの写真を送ってきた。

「骨董市で見つけたんだけれども、売っていた業者は、それが日本のこけしというものであることのほかは、何も知らなかったのよ。どこのどういうものか、いつごろのものかわかる?『こけし』ってどういうもの?」
彼女もつきあいが長いから私のことをよくわかっている。危険水域から表へ出た。
「こけしのことはよくわからないが、なじみの喫茶店の店主が会を開いていた。昔は温泉へ行った家族が、そこでこどもに与えたおもちゃが始まりだというよ。だから産地によってはこどもが持てるように、胴を細くしたり、真ん中を細くしたものもある。頭の上の赤い模様と顔の描き方から、蔵王のあたりのものだと思う。裏に書いてあるのは『7寸、斎藤源吉』ではないかな?大正時代ごろのものだと思うが。専門家でないからわからない。」

私は彼女がそういうものを買っているのが不思議だった。前回日本へ来ていた時、一緒に骨董市へ行き、おたふくの面を買っていた。
「能面はそれほどじゃないけれど、これは昔から欲しいと思っていたのよ。」
「その面は踊りと芸能の女神、アメノウズメがもとだと言うね。」

しかし、誰が大正時代のこけしをヨーロッパに持って行ったのか?大正時代に日本人がおみやげとして持って行ったのか?あるいは日本へ来た旅行者が、日本の骨董市でみつけ、やがてその持ち主がいなくなって、今度はヨーロッパの市に出たものなのか?考えるほどに不思議だ。

「机の上に置いてあって、優雅な感じのまなざしで笑っているのよ」
こけしの口はどれもおちょぼぐちで笑わせていない。それでもこけしはどれも微かにほほ笑んでいる。

たぶん、ほとんどの世の中のメールには『伝えるだけ』で、そうしたほほ笑みがないのだと思う。

人生サイクリングは一本道

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今朝、友人からメールがありまして、いろいろと考えることがあった。そのメールは「こけしの友人とは別の友人」なのですが、彼女に20年ほど前、ミゲール・インデュラインの故郷、パンプローナを案内してもらったことがある。

その時は、フランシスコ・ザビエルのいた修道院や中世の色が濃いサラゴーザなどを自転車でめぐった。

日本から仁さんの白いロードレーサーを持って行った。
「スペイン、いいねぇ。ガウディのあのトカゲのモザイクみたいなとか実にいいねぇ。」
と仁さんが言うので、じゃあ、それ用に一台作って、と航空輪行で持って行った。あれは貴重な体験でした。

仁さんが『ガウディとうちの自転車の写真撮ってきてくださいよ』というので、グエル公園まで写真を写しに行った。あいにく、カメラのフォーカルプレーンシャッターが現地で不調になり、フィルム1本しかうまく撮れませんでした。

あのころは、仁さんは『セミマスプロ』と思われていて、過小評価されていて、応援したいと思ったこともあった。雑誌にも記事が出て、その車両はヨーロッパで、アメリカの自転車関係者にも見せて、アメリカでの知名度を高めるのの下地作りも、そのとき私がやった。

「聞いたことがないブランドだ。Tや3Rは知っているが。」
「これは3Rの兄のもので、溶接は3RのYKよりはるかに巧いよ。」
ずいぶん説得、広報に努めた。

スペインへは英国から自転車を持ち込んだのですが、そのままスペインへ残してきた。そのスペインの友人はインデュラインと同じ村の出身だったので、自転車は彼女にあげた。通勤に使い、ずいぶん多くのマニアに『譲ってほしい』と言われたそうです。

その彼女も最近腰があまりよくないので、ロードレーサー通勤をやめようと思う、という話でした。
『改造ができるものなのか、あるいは交換することが可能か、誰かほかの私の友人に譲るのが良いか?相談したい』
という内容のメール。年月の経つのをしみじみと思う。

仁さんの白いロードレーサーで、インデュラインのイエロー・ジャージの飾られたファンクラブの本部のカフェへ乗り付け、表へ自転車を停め、中で一服、などとやっていた。

中学生の時からロードレーサーに乗って、ウン十年乗り続けたから、もういいかなという思いもあって、徐々にロードレーサーから遠ざかった。

いまから考えると、スペインへロードレーサーで走りに行ったという事実が我ながら信じられない。一方で、彼女の方も歳をとり、ロードレーサー適齢期を過ぎているのも、私はいつしか忘れていた。

「◎◎◎に8月会うんだろう?◎◎◎の息子にあげれば良いんじゃないかな。彼はあと3年ぐらいで乗れるだろう。彼も自転車が好きでよく乗っているらしいから。君の替わりの一台はつくってあげるよ。」

このあたりは金額の問題ではない。形見みたいなものだ。

彼女も4分の1世紀以上の友人。過去の記憶はそのままとして、おのおの人生の道を先へ進めて行く。剥落してゆく友人もいれば、残る友人もいる。それは、その人の人生だから、残る人が残れば良い。

こどものころ、芝生の上で目隠しをして真っ直ぐ歩く遊びをやった。目隠しをとってみると、ずいぶん歩いた道が曲がっているのに驚く。人生も同じかもしれない。一時期同じ道を歩いていた人がどこかで曲がって、見えなくなっていたりする。

私は後戻りして、見失った人を探すことをしない。それはその人の考えで行くんだから。私の交友で残っている人の9割が職人と芸術関係の人であるというのはたぶん、職人の世界と芸術の世界では、多くの人が生涯同じ道の上にいるからだろうと言う気がする。

いっそううがった言い方をするなら、それは『趣味』でもない。苦痛も少なくない趣味など趣味として成立しないだろう。

私も28号とか、それだけを作ってこのまま余生をつつ走れば、それは『お仕事』。休みの日にひまつぶしに自転車に乗っていたり、運動するだけならそれは『余暇・趣味』だろうと思う。

自分にとっての自転車は、そのどちらでもない。

ここ2週間ばかり、自分は次の自転車の試作図面を引いている。

それが28号ほど、バルケッタほどよくないものになるなら、それは私がこの8年で進歩しなかったということだ。自転車の解答はひとつではない。

自動車の運転のゲームで、自分が動いていなくても、画面上のコースがどんどん動くように、いつまでも同じコース、同じことをやっていて、ルーティーンになると私は退屈する。出来上がるものもよくならない。枕の上で冷たい場所を探すことが必要だ。

同じ服ばかり着ていると、肘が抜ける。精神もまた同じなのではないか?不可逆であり、その場足踏みもまた退屈なら、先へ歩くのが正しいと思う。それをやらないかぎり、同じものを作り続けることはできない。べつのことを並行してやってみて、はじめて前の仕事がよりはっきりみえることもある。

原三渓が、或るライバルコレクターが買った日本画をたいそううらやましく思い、その作者にまったく同じものを描いてもらったことがあった。

『どう見ても本人が描いた偽物だ。やはり絵画は一点ものだね。』
と言った。これはゴッホのひまわりですら、最初の一枚にはかなわない。本当は職人の作るものもすべて同じだと思う。

同じことを同じようにやっていたら、同じものを維持することもできない。人生は前へ流れて行くものである以上、これは避けて通れない問題だと思う。

お盆のこと

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昨日で関東の多くの地域でお盆も終わり、お中元も一昨日で終わりました。このお中元とお盆がほぼ同じ時期に来るのも意味があることだ。

お盆というのが、こどもの頃はよくわからなかった。いや、成人してからもよくわからなかった。

30歳を過ぎたころから、海外の人からの質問に答えるために、古本をあさり、古典を読みはじめて、『お盆は親子の慈悲を基本に置いている』と言うようなことを知った。「この身に親がある如く、こころにも親がある」ともいう。「恩を知り、徳に報いる」。「恩を知るは一切の善の元なり」とお経にある。父母の恩、衆生の恩というのも説かれている。

そういえば、自転車で京都を徘徊していた時、知恩院という名前でその話を思い出し、また、知恩院にはねこの親子の襖絵があるのを見てさらに納得した。

私はお盆に思い出す一休禅師の話があるのですが、最近の本には出ていない。江戸時代のものを読んでいると、狂言の話などが一休の話となって入っていたりするので、これもあるいは後世の付けたしかもしれない。しかし、私は説話として面白いと思う。古語で書かれているものがほとんどなので、だんだん読まれなくなって、多くの日本人から忘れられてしまうのかなと思うと残念だ。

いま読んでも興味深い話なので、季節がら現代語で短縮して書きなおしてみようと思う。

昔、永平寺の末寺のひとつの檀家に大きい紙問屋があった。そのあるじはそうとうな財産を貯え、生活は何不自由もなく、しかも息子はたいへんな孝行者だった。

ところが、あるとき急な病に倒れて、そのあるじはポックリ死んでしまった。息子は庄蔵と言ったそうだが、たいへん嘆き悲しみ、動かぬ父親にとりすがって泣くばかり、「だびにふす」なども思いもよらないぐらいであった。

禅居禅師はふびんに思い、『追善供養がなによりもの親孝行になる』と説得し、さとし、ようやく野辺の送りも済ませた。ところが今度は、庄蔵は「父に会いたい」とさわぎ始めた。食事もとらず、家業の仕事も手を付けず放りっぱなし。

禅居禅師は一計を案じ、白木の塔婆を背中に背負わせ、弟子を一人付き添わせ、一休のもとへ送り届けた。弟子は門前に庄蔵を送りとどけると、自分は帰ってしまった。

庄蔵は玄関のところで、言われた通り「お頼み申します!」と大声で言った。
出てきたのは一休の弟子。
「いかなる御用でございましょう。」
じろじろと眺めると、髪はぼうぼう、食べ物も食べていない様子でやつれ、背中には塔婆を背負っている。変わった御仁が来たといぶかった。
「極楽へ連れ行ってくだされ!」
とまたしても、藪から棒に言う。
「極楽へ連れて行ってくださるよう、一休禅師さまに申し上げてください。」
いったい、どこから来た変わり者かな?と気味わるく思いながら、
「それで、どこから来なさった?」
「はい。越前の永平寺の禅居禅師様の御指図で参りました。一休様に一目なりともお目にかからぬうちは、たとえ半年でも1年でもここを動きません。」
眼が座って、なにやら恐ろしいほどに思い詰めている様子。

弟子が奥へ引っ込んで一休にそのむねを話すと、笑いながら、
「そういうのが来たか。永平寺から来たのなら、いつぞやのやりこめられたことの仕返しだろう。かまわないから、ここへ通しなさい。」
庄蔵は一休の前に出て、ひととおりのことを説明した。
「もう一度、どうしても父に会いたいのです。一休さまにお願いすれば、きっと会わせてくださるといわれて、はるばるやってきたのでございます。」

「それほどまで、どうしても会いたいのか?」
「はい。会いたくて、会いたくて、どうにもいたたまれないのでございます。」
「それほどまで会いたいのならば、必ず会わせてやろう。ところで庄蔵、父親は地獄へ行ったと思うか?極楽へ行ったと思うか?」
「地獄へなどと、滅相もございません。きっと極楽におります。」
「どうしてそれがわかる?」
「それは父は、一生善根ばかりほどこしましたから。永平寺の禅師さまも言っておりました。お前の父親は極楽へ行ったから安心せよ、と。」
「おお、そうか。禅居禅師がそう云うたのなら確かじゃ。それではまず風呂に入れ。」
「いえ、私はこのままでけっこうでございます。」
「何を言うか。まず身体を清めなくては極楽へ行けぬぞ。」

大急ぎで庄蔵は風呂に入ってきた。

「次に、食事をしないといけない。なにぶんにも遠い道のりじゃ。途中で空腹で倒れることがあってはいかん。」
「どのくらい遠くでございましょう?」
「お前も聞いておるように、十萬億土のかなたじゃ。どうだ歩けるか?」
「はい。一日10里や15里は歩いてみせます。」

一休は庄蔵をさえぎって、
「それはいかん。そんなことでは行き違いになるぞ。」
「それはまたどうしてでございますか?」
「考えてもみよ。それでは一日に20里歩いたところで、月に600里。1年で七千二百里にしかならぬ。そのようなことでは着くまでに十年以上かかってしまう。そんな長い間には、お前の父は年に数度娑婆に帰って来る。むしろ、こちらで待つていたらどうじゃ。」
「いけません、いけません。一休さまは私をそんなことで丸め込もうとしていなさる。どうあってもお連れください。」
「それほどの覚悟なら、連れて行ってしんぜよう。まずはたくさん食べて、仕度をするが良い。」

一休は庄蔵の食べる姿をじっとみていた。
「どうだどのくらい食べた?」
「3杯でございます。」
「まだ少ない。もう少し食べよ。」
「もう、これ以上食べられませぬ。満腹でございます。」
「それでは旅支度をするからついてまいれ。」

一休は庄蔵の頭を刈り、白木綿の着物を着せ、首から下げた袋に六文銭をいれ、右手に数珠を持たせた。

お経を唱えつつ、庄蔵を本堂へ案内した。本堂は真っ暗。蝋燭が一本だけ立っていて、その蝋燭の後ろには庄蔵が越前から背負ってきた塔婆がたてかけてあった。

夜の闇の中のお寺の本堂は静まり返って気味が悪い。しかも後ろから奇妙な足音がついてくる。振り返っても誰もいない。おそるおそる本堂の中央の方へ進む庄蔵。

一休は高僧の座る椅子に座った。
「庄蔵、早くこちらにまいれ。はよう来い。」
その時、蝋燭の火が消えた。庄蔵は立ちすくんだ。もはや何も見えない。

「庄蔵っ!」
一休が叫んだ。
「はいッ!」
「それ、ほら、ほら、お前の父親が来たぞっ!」
「暗くて何も見えませぬ。」
「その暗闇の中におるのじゃ。」
「見えませぬ。父上っ!父上っ!」
「ほらっ、わからぬかっ!そこにおるではないか!」
「そう申されましても、、」
「庄蔵っ!何をしておる。」
「ですが、見当もつきませぬ。父上っ!」
「まだわからぬか!そこじゃ。そこにおるのじゃ。」

その時、蝋燭に火がともされた。
「庄蔵、どうじゃ。明るくなったであろう。」
「はい。明るくなりました。」
「見えるか。」
「はい。見えます。」
「その暗いところを忘れてはならぬ。」

一休は和歌を一首読んだ『ともしびの 消えていずこへゆくやらん 暗きがもとの住まいなりけり』。

一休は塔婆を庄蔵に返すと、
「これを持って越前へもどり、これらのことを禅居禅師に伝えるがよい。」
「そうしますと、あの暗いところが極楽なのでございますか?」
「はるかに十萬億土。極楽への道、死出の旅路は暗いものじゃ。お前がはるばる訪ねて行くよりは、回忌とお盆の時などには親のほうから訪ねてくるから、会うにつれて、妻ができ、こどもをもうけ、商いがうまくゆき、家が栄えなければ、申しわけがたつまい。それがなによりの孝行じゃ。」

その庄蔵の持ってきた塔婆は暗闇でいつのまにか真っ黒く一休が塗っていた。

その後日談。一部始終を聞かされた禅居禅師ははなはだしく不機嫌になった。「あの一休の生臭坊主め、庄蔵を導いたまでは良かったが、塔婆を黒く塗って返すとはなにごとであろう。人を小馬鹿にしおって、問答に及ばん」と今度は自ら出かけて行った。

問答ののち、禅居禅師は筆をとって歌をしたためた。
「明るくも 行かれる道を墨で塗る 死出の山路はいずくなるらん」
一休即座に答えて書いたのは
「明るくも 暗くも行くが佛なり 死出の山路に夜昼は無し」

一休はすまして、「塔婆に何も書かなんだら、お互い飯の食い上げになるのでなぁ」と言ったので、禅居禅師は返す言葉がなかったと言う。
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