古書店というのは面白いもので、その人のすべてが反映されている。どういう興味関心で、どういう地域にいて、どこの人と知り合いで、など、「すべての縁」の集大成であると言えるわけです。
つまらないエリアにはつまらない古本屋がある。つまらない店主の品揃えはつまらない。
ところが私は、「人間と言うのは古本屋みたいなものだ」という説を持っています(笑)。
その人の全部の知識、人生経験、人脈、審美眼、人間性、果ては運や直観力も、その人間の形成にかかせない要素でしょう。
何を残し、何を手放したか?
「君の本棚を見せたまえ、君がどういう人だか当ててみせよう」と言った有名な人がいた。
油絵の下塗りの色は、すべてを塗って覆い隠しても何色だったか感じられてわかるものです。
たとえば、一人の人が死ぬとする。これは数知れぬ知識と経験の集合体がほどけることでしょう。
これはどんなに近くにいてもわからない。私の父や母のこども時代の遊び仲間のことなど私は何も知りません。ほぼゼロと言ってよい。その他のことも、私は知らないに等しい。しかし、それらが父や母の個性に関係ないはずが無い。
これは私が自転車を作っていることの背景にしてもそうで、いままで数知れず乗った自転車の経験値、見たことが後ろにある。これは自転車の色ひとつ決めるにしてもそうで、その背景にはいままで見たすべての絵画や自動車やバイクなども含めた工業製品、町並みや建築細部の色の記憶の総体で判断しているはず。
古本屋の閉店というのはさまざまなことを考えさせられます。
私が「私と言う存在を閉店する時」、ある意味、書籍すら残らない。写真一枚にしても、どこで撮られ、どういう天気で、カメラは何で、その日はどういうことがあって、、、などと私は思い出せますが、そういうことも私の存在の消滅で一切が鍵がかけられてしまう。もう誰も入れない。
これは絵画作品でも、文学でも、本来そうでしょう。
古書店の移転はあらたな出発。「『存在の閉店』は消え去るものがほとんど。」
古物は『漂着物』の一種ですが、それを生かす人はきわめて稀です。
片付けの最中、「も~~、掘っても掘っても本が出てくる。R&Fさんとこもそうなんじゃないですか」と言われましたが、たぶん、二重の意味においてそうです。
「自転車が建築」だとするなら、私は作ったときに「足場は取り壊している」ので、あとは、それ自身の「機械の命」にまかせるほかはありません。