昨日は二人の方とお会いして、ある神社のわきで待ち合わせしました。「せっかくだから」と二人とも御参りされていました。
私も神社があると御参りをしますが、本殿が開け放たれていると、鏡が置いてある。これは興味深いな、と思うのです。
カソリックのミサでも、最後の頃に、司祭が鏡を会衆に照らすようにまんべんなく向ける。これはイスラームの聖人の墓所などでも同じで鏡が貼ってあります。
3つの宗教で、鏡が似たような目的で使われている。
鏡に自らの姿が映り、それが信仰の対象のものの鏡に映り、それが恥じるところのないものであるのか?まずそこからはじめよ、ということなのでしょう。
「神の国は汝自身のなかにある」という一言からすれば、そういう「境地」が自らのこころのうちに実現されているかどうか?は「鏡」によってあきらかになる。
お寺に行けば、仏像が、訪れた人のなかに宿る尊い仏性にたいして、合掌して拝んでいる。
「定期的にそういうところへ行って、心の曇り、濁りを落としてリセットしてくる」ことは重要だと思います。
日本でも「神仏の喜ばないことをして、勝利あるべからず」と武将はよく言っていた。
私の祖父の世代の人たちは「お猿さんは人間に3本毛が足りない」とよく言っていました(笑)。今流なら「肝心要なところの遺伝子が3つ足りない」とでも言うのでしょうか。猿はそういう鏡に象徴的な思想をこめることはできません。
ところがコンピューターが普及するにつれ、電車の中でもどこでも、「鳥が鏡にぶつかってゆくように画面に向かっている人たちが大量にあらわれた」。
西暦2000年以降はコンピューター画面が「現代の鏡」となった。
画面の向こうの誰かを敵とみなしたり、自分の姿を見られずに覗き見する、自分の姿を見られずに攻撃することも可能になった。
この「現代の鏡、液晶画面」は、その前に立った人の濁った醜い場面も増幅して、その当の本人には自分の姿が見えなくなる」という「神社や教会の鏡の真逆の役目」をする場合がある。そういう場所で、ますます、悪い腫瘍のように邪なものが大きくなってゆく。
どうも負チャンネルなどをみると、今は駅の構内でも見なくなった「痰壺」(完全に絶滅、笑)のようにおぞましい感じがする。
それは匿名で書いて、自分に火の粉がかからないと思っているかもしれない。しかし、書いた本人の心は決して、死ぬまで、自分がそういう事を書いた事実を忘れないのです。
まさに、その一点の曇りのせいで、そういう人の心は最後の最後で折れる。
自分の脳は、自分の喋っていることを聞いている。書いていることも読んでいます。それは自分の脳に知らず知らずのうちに「暗示」をかけているのに等しい。そういう「痰壺エリア」で「俺たち蛆虫は~」とか書いている人たちの脳は、深層意識に自分自身で「俺って蛆虫なんだ~」という暗示を送り込んでいるわけです。繰り返しているうちに、やがて自分の脳はそれを信じます。そこで、すべての運気が落ちて、自分自身が滅びる。
そういう「否定的想念は必ずそれを用いた人へ帰ってくる」。
そうでないならば、世界のそうした大宗教がどこもこぞって「鏡」を置いているはずはないのです。
私も神社があると御参りをしますが、本殿が開け放たれていると、鏡が置いてある。これは興味深いな、と思うのです。
カソリックのミサでも、最後の頃に、司祭が鏡を会衆に照らすようにまんべんなく向ける。これはイスラームの聖人の墓所などでも同じで鏡が貼ってあります。
3つの宗教で、鏡が似たような目的で使われている。
鏡に自らの姿が映り、それが信仰の対象のものの鏡に映り、それが恥じるところのないものであるのか?まずそこからはじめよ、ということなのでしょう。
「神の国は汝自身のなかにある」という一言からすれば、そういう「境地」が自らのこころのうちに実現されているかどうか?は「鏡」によってあきらかになる。
お寺に行けば、仏像が、訪れた人のなかに宿る尊い仏性にたいして、合掌して拝んでいる。
「定期的にそういうところへ行って、心の曇り、濁りを落としてリセットしてくる」ことは重要だと思います。
日本でも「神仏の喜ばないことをして、勝利あるべからず」と武将はよく言っていた。
私の祖父の世代の人たちは「お猿さんは人間に3本毛が足りない」とよく言っていました(笑)。今流なら「肝心要なところの遺伝子が3つ足りない」とでも言うのでしょうか。猿はそういう鏡に象徴的な思想をこめることはできません。
ところがコンピューターが普及するにつれ、電車の中でもどこでも、「鳥が鏡にぶつかってゆくように画面に向かっている人たちが大量にあらわれた」。
西暦2000年以降はコンピューター画面が「現代の鏡」となった。
画面の向こうの誰かを敵とみなしたり、自分の姿を見られずに覗き見する、自分の姿を見られずに攻撃することも可能になった。
この「現代の鏡、液晶画面」は、その前に立った人の濁った醜い場面も増幅して、その当の本人には自分の姿が見えなくなる」という「神社や教会の鏡の真逆の役目」をする場合がある。そういう場所で、ますます、悪い腫瘍のように邪なものが大きくなってゆく。
どうも負チャンネルなどをみると、今は駅の構内でも見なくなった「痰壺」(完全に絶滅、笑)のようにおぞましい感じがする。
それは匿名で書いて、自分に火の粉がかからないと思っているかもしれない。しかし、書いた本人の心は決して、死ぬまで、自分がそういう事を書いた事実を忘れないのです。
まさに、その一点の曇りのせいで、そういう人の心は最後の最後で折れる。
自分の脳は、自分の喋っていることを聞いている。書いていることも読んでいます。それは自分の脳に知らず知らずのうちに「暗示」をかけているのに等しい。そういう「痰壺エリア」で「俺たち蛆虫は~」とか書いている人たちの脳は、深層意識に自分自身で「俺って蛆虫なんだ~」という暗示を送り込んでいるわけです。繰り返しているうちに、やがて自分の脳はそれを信じます。そこで、すべての運気が落ちて、自分自身が滅びる。
そういう「否定的想念は必ずそれを用いた人へ帰ってくる」。
そうでないならば、世界のそうした大宗教がどこもこぞって「鏡」を置いているはずはないのです。