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Channel: 英国式自転車生活
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自発性の圧殺

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夕方、友人のところへ寄ったら、こどもに宿題のことなどいろいろ聞かれました。

まあ、最近の宿題はずいぶん難しいことをやっている。問題を解くのに方程式を書いたら、「小学生は方程式をやっていないので、それを使わずに」というので、ますますめんどうな話でした。私などには先に回答がでてしまう。これは、「やりかたを教わって、そのパターンを使う訓練」のようです。これを通常のこどもが自分の論理能力で考えて解けるとは、私は思わない。

「こういう日本の教育って、上から押し付けられた理不尽な要求に、黙って耐えて作業こなすための、柔順な会社員になるための訓練だよね。」
と友人が言ったので爆笑してしまいました。

こういう難解知能パズルのようなことをやらせているかと思うと、小林秀雄程度の文章の論理性が文脈から追えず、全国平均点が著しく落ちていたりする。

つまり、通常の文章中の論理を追いかける抽象思考能力では「難解知能パズルの応用が出来ない」ということがテストで明らかになってしまっている。

ある程度、知能レベルが高いこどもは、こういうものを喜ばない、感受性が鋭いこどもも受け付けないでしょう。むしろ「そういうことをやるなど馬鹿馬鹿しい」と思うのではないか?

ちょうど、今週の週刊誌に、数年前に亡くなった中島らもがIQが180あったものの、学校には適応できなかったという話が出ていました。じつはうちの親戚にも東大進学率トップの学校を主席中退したIQ220のがいます。彼も受験校のやりかたがくだらなく思え、反逆の限りを尽して中退した。

日本の入試を軸としたやりかたのなかには、どこか、「批判能力のない」「自我を殺して権威に言いなりになって、自らが権威そのものに同化してゆく」タイプの人間しか上に行けないシステムのように思えます。

ところが、ヨーロッパには、そういう特異な才能の持主や、たいへん出来る人が「馬鹿馬鹿しいと思わずに伸びてゆけるフィールドがある」ように思えます。

英国では「ここには7番目の自由がある。それは変わり者でいられる自由」と言われている。

どうも日本の教育は、高度成長期のころにしても、「会社のための有能な兵隊をつくって供給する」感じであった気がしてなりません。

しかし、いまや世界中の情報がインターネットでつながっている時代に、必要な人材は少し違うのではないか?

もっとも自分らしいところを追及して、自分らしくなることを突き抜けてゆくことで、どこかで人類普遍の何かに突き当たるのではないか?

私にはそんな気がする。

ウジューヌ・ラポルトによると、ピカソはお釣の計算ができないため一人で煙草を買えなかったと言います。それでもまったくかまわない。

モーツアルトもワーグナーもまったく経済感覚・金銭感覚がダメで、生活は破綻していました。それでもあれほどの音楽が書けて人類に貢献できたのだからかまわない。

アインシュタインは「はしにも棒にもかからないうすのろ」だと思われていた。それでもまったくかまわない。あれだけの抽象思考ができたのですから。

ゴッホだって牧師になれなかった不適応者でした。ボッティチェリの師のフィリッポ・リッピは尼僧をはらませて二人で逃避行をした。それでも彼らは立派な大画家になれた。

それでも活躍の場がある社会、というのが、いまの世界的な「画一化」の世の中で、文化的よどみを打開する強い個性の人材が出てくるのに必要なのではないか?

ゆとり教育の失敗で、振り子はまた逆の極端に振れているように思える。

「そつのない、小賢しい小物ばかり」が量産されるのではないか?

これは「ひとつの唯一無二の個性」を育てるのではなく、「誰かに勝たせようという学力」を育てようとしているために私には見える。その「誰か」は諸外国かもしれません。

この国の花となる人々を咲かせてやる「すきま」を作らない制度は、敷かれたレール以外の道へ行きたがっている個性豊かなこどもほど、生き地獄になるのではないか?

私自身、青春時代に英国へ行って、はじめて「息が出来た」感じがしたので、今日いろいろ訊かれたこどもが、「どうしてこういうことやらなきゃいけないの?」と訊いていたのに、深い同情を禁じ得ません。

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