私はこのごろ、「21世紀に入ってから、人間のレッテル付けが進んだのではないか?」という気がものすごくします。
財布をちらりとのぞく、カードの枚数とカードの色でどのくらいの収入の人かわかる。さらにフェイスブックを見れば、どういう交流関係かわかる。学歴もわかる。国際的に見れば人種もわかる。
しかし、ほんとうのところわからないのは「その人はどういう人か?」ということです。
私はかつて、ずいぶんアメリカと仕事をしましたが、意外なことにアメリカのほうが英国より明確な序列と階級制度があったことが意外でした。
英国では食事のマナー、着こなし、社交性、話題と会話内容、話す英語、ひとがら、ユーモア、この7つでどんなところへでも入ってゆけ、また受け入れられます。この7つは「努力でなんとかなる」。
ところがアメリカではそうはゆかなかった。それは人種的に見下されている感じであったり、肩書きであったり。身体的外観であったり、努力ではどうしようもない部分があるのを感じました。
そこに「我々こそが世界正義を代表している」という妙な確信。そういう彼らの価値観、文化を受け入れないものは、本当の意味では受け入れられない。あの感覚は英国ではついぞ体験したことがなかった。
昔、「新大陸のほうのケンブリッジ」から来た連中に会って、もうどうしようもないくらいのスノッブだった記憶があります。そして血統主義とでもいうべきもの。
自転車乗りの映画、「クイック・シルヴァー」のなかで、ケビン・ベーコンが演じる主人公が破産したとき、父親が「おい、俺たちは◎×の血筋だってのがわかってるな。もう一回やり直すんだ」という場面があります。あの場面であのセリフは英国・ヨーロッパでなら考えられない。
キャンディス・バーゲンの主演の映画に「メイフラワー・マダム」というのがありますが、あれと「マイフェア・レデイ」を両方観ると面白いと思います。かたや、英国の貧しい階級の女性が話す言葉を直して、上流階級へゆく話。もう片方は、実話にもとづいていて、アメリカへ最初にメイフラワー号で渡った一族の女性が、高級弧ー瑠雅ー瑠組織の元締めになる話。あまりにその客層が政治の大物や俳優、有名人のすごいところまでからんでいたので、おおがかりにうやむやにされた事件でした。あの映画には、その当の本人が出演しています。
そのなかにメイフラワー号の子孫の会というのが毎年ひらかれるのですが、そこで話されている英語が、発音はアメリカ英語ですが、アクセントは英国英語っぽいのです。
ヴェトナム戦争を描いた映画ディア・ハンターを見ていると、そこへ出てくるアメリカ人がみなロシア系なのですが、つまり、アメリカ階級社会でトップへ出れないロシア系がそういうところへ出て行かされ、同じロシアの作った「主義」と戦わされている図式。
アメリカにはスペイン系を侮蔑する「スピック」と言う単語がありますが、英国ではそれに類する単語すら聞いた事がない。アメリカ人全体を揶揄する「やんくす」と言う単語はありますが(笑)。
昔、アメリカ人の技師と話していた時、どういう車が好きか?と言う話になったとき、彼がある有名なアメリカの高級車のことを「あれはアメリカでは有色人種の人の乗る車だ」と言ったので、へーと思ったことがある。彼自身はペンシルベニア出のオランダ系でした。英国・ヨーロッパで「有色人種の乗るクルマ」というのはちょっと考えられない。ありません。
クルマはアメリカではその人の社会背景と収入の指標なのです。英国やオランダ、北欧ではとうの昔に自動車からはそういう意味合いは薄れている。それは16世紀の豪邸に住むAM博士が中古の「ケロッピ色の小さい自動車」に乗っていたことでもわかります。
ところが、そういう消費財は定期的なモデルチェンジと短い消費サイクルで、しだいに持主の背景は「メーカーの作り上げたグレード・ラインナップ階段に、消費者があてはめられるようになってきた観があります。それでは何によってみずからのエリート意識を彼らは満足させるのか?
その先にカードの色とSNSで明らかになる「ぺデイグリー」があるように思える。
さらに遺伝子の個人情報がからんできたら、もうどうしようもない。自分の持って生まれた遺伝子はどうこう出来ませんから。「あなたはこういう傾向で、何歳ぐらいでこういう病気になる」とか言われても、生まれる前に自分でそれを選ぶことはできませんから。ところが、あるアメリカン・チャーチで、牧師がよく好んでこの遺伝子の話をしていたのを覚えています。
これは実は英国式の「切磋琢磨で身につけるもの」、あるいは好みの洋服を作ってくれる職人から、好みの腕時計や懐中時計を整備してくれる人、までの「人脈力」を持ち、収入が無くともその能力・人柄によって、社会階層のどのレベルへでも食い込める英国・ヨーロッパ的な価値観へのアメリカ商業主義エリートの新たな階級主義導入の挑戦のように思えます。
私は会社員時代、肩書きはなしで、社長のすぐ下にいました。そうすると、北米だとマネージャークラス以上はこちらの手紙に返事すら出さない。「意思決定権のない最下層のタイピスト」が手紙を寄越す。私の会社員時代の社長は若い頃英国の銀行に修行で勤めていたことがあったので、彼は援護射撃で、皮肉タップリに向こうの会社の社長に、「私の名代にR&Fをそちらへ送る。一切の決定権は彼にあるので良く相談してくれ」と手紙を出しました。その時の彼らの豹変・狼狽ぶりは面白かった。
日本の若い世代を見ていると、一部でアメリカ英語の「ネイザル・サウンド」(鼻声)を真似て、アメリカの大学認定英語資格取得に燃え、良い色のカードを持つのに必死の人をみますが、
「まあ、そういうのは、計画的にすべてを自分たちの国の価値観へ引き寄せる『レール』だから、もっとクールに眺めたほうが良いんじゃないかな。鼻声発音は彼らの多くが中西部の小麦耕作地帯で小麦花粉症(ヘイ・フィーヴァー)にかかっているからだし、真似することは無いよ。」
と若い人たちには言っています。
007の「ダイ・アナザー・ディ」のなかで、ボンドがパジャマのズボンだけでホテルのカウンターへ行き、部屋を頼むシーンがありますが、あれがなかなかいい。相手が、
「クレジット・カードをお持ちで?」
と聞く。そこでカードの色でもう、ふるいにかけようとする。
じつは私は某アメリカ系カードの会社の重役を長年知っているのですが、奥さんはアメリカ人。住んでいるところは東京のアメリカの租界と言う感じのところ。彼自身、まったくアメリカそのものの感じです。私は彼は日系アメリカ人だと思っていた。じつは日本生まれ、日本育ちのその人は、日本の名前もあるはずなのですが、私は30年近く知っているのに、英語のファーストネームと日本語の苗字しか知りません。(私もジェローム雷神とかにするか?爆、聖人の名前とPagan ? There is a contradiction of the names.)
ある意味、彼は今後のアメリカへ寄り添う日本のひとつのビジネス・エリートのタイプなのでしょうが、英国派の私は最後までそういう我が国のアメリカニズム推進傾向には反抗したいと思っています。
私は持ち物では見ない。シェークスピアの言ったように What manner of man ?と聞くでしょう。
財布をちらりとのぞく、カードの枚数とカードの色でどのくらいの収入の人かわかる。さらにフェイスブックを見れば、どういう交流関係かわかる。学歴もわかる。国際的に見れば人種もわかる。
しかし、ほんとうのところわからないのは「その人はどういう人か?」ということです。
私はかつて、ずいぶんアメリカと仕事をしましたが、意外なことにアメリカのほうが英国より明確な序列と階級制度があったことが意外でした。
英国では食事のマナー、着こなし、社交性、話題と会話内容、話す英語、ひとがら、ユーモア、この7つでどんなところへでも入ってゆけ、また受け入れられます。この7つは「努力でなんとかなる」。
ところがアメリカではそうはゆかなかった。それは人種的に見下されている感じであったり、肩書きであったり。身体的外観であったり、努力ではどうしようもない部分があるのを感じました。
そこに「我々こそが世界正義を代表している」という妙な確信。そういう彼らの価値観、文化を受け入れないものは、本当の意味では受け入れられない。あの感覚は英国ではついぞ体験したことがなかった。
昔、「新大陸のほうのケンブリッジ」から来た連中に会って、もうどうしようもないくらいのスノッブだった記憶があります。そして血統主義とでもいうべきもの。
自転車乗りの映画、「クイック・シルヴァー」のなかで、ケビン・ベーコンが演じる主人公が破産したとき、父親が「おい、俺たちは◎×の血筋だってのがわかってるな。もう一回やり直すんだ」という場面があります。あの場面であのセリフは英国・ヨーロッパでなら考えられない。
キャンディス・バーゲンの主演の映画に「メイフラワー・マダム」というのがありますが、あれと「マイフェア・レデイ」を両方観ると面白いと思います。かたや、英国の貧しい階級の女性が話す言葉を直して、上流階級へゆく話。もう片方は、実話にもとづいていて、アメリカへ最初にメイフラワー号で渡った一族の女性が、高級弧ー瑠雅ー瑠組織の元締めになる話。あまりにその客層が政治の大物や俳優、有名人のすごいところまでからんでいたので、おおがかりにうやむやにされた事件でした。あの映画には、その当の本人が出演しています。
そのなかにメイフラワー号の子孫の会というのが毎年ひらかれるのですが、そこで話されている英語が、発音はアメリカ英語ですが、アクセントは英国英語っぽいのです。
ヴェトナム戦争を描いた映画ディア・ハンターを見ていると、そこへ出てくるアメリカ人がみなロシア系なのですが、つまり、アメリカ階級社会でトップへ出れないロシア系がそういうところへ出て行かされ、同じロシアの作った「主義」と戦わされている図式。
アメリカにはスペイン系を侮蔑する「スピック」と言う単語がありますが、英国ではそれに類する単語すら聞いた事がない。アメリカ人全体を揶揄する「やんくす」と言う単語はありますが(笑)。
昔、アメリカ人の技師と話していた時、どういう車が好きか?と言う話になったとき、彼がある有名なアメリカの高級車のことを「あれはアメリカでは有色人種の人の乗る車だ」と言ったので、へーと思ったことがある。彼自身はペンシルベニア出のオランダ系でした。英国・ヨーロッパで「有色人種の乗るクルマ」というのはちょっと考えられない。ありません。
クルマはアメリカではその人の社会背景と収入の指標なのです。英国やオランダ、北欧ではとうの昔に自動車からはそういう意味合いは薄れている。それは16世紀の豪邸に住むAM博士が中古の「ケロッピ色の小さい自動車」に乗っていたことでもわかります。
ところが、そういう消費財は定期的なモデルチェンジと短い消費サイクルで、しだいに持主の背景は「メーカーの作り上げたグレード・ラインナップ階段に、消費者があてはめられるようになってきた観があります。それでは何によってみずからのエリート意識を彼らは満足させるのか?
その先にカードの色とSNSで明らかになる「ぺデイグリー」があるように思える。
さらに遺伝子の個人情報がからんできたら、もうどうしようもない。自分の持って生まれた遺伝子はどうこう出来ませんから。「あなたはこういう傾向で、何歳ぐらいでこういう病気になる」とか言われても、生まれる前に自分でそれを選ぶことはできませんから。ところが、あるアメリカン・チャーチで、牧師がよく好んでこの遺伝子の話をしていたのを覚えています。
これは実は英国式の「切磋琢磨で身につけるもの」、あるいは好みの洋服を作ってくれる職人から、好みの腕時計や懐中時計を整備してくれる人、までの「人脈力」を持ち、収入が無くともその能力・人柄によって、社会階層のどのレベルへでも食い込める英国・ヨーロッパ的な価値観へのアメリカ商業主義エリートの新たな階級主義導入の挑戦のように思えます。
私は会社員時代、肩書きはなしで、社長のすぐ下にいました。そうすると、北米だとマネージャークラス以上はこちらの手紙に返事すら出さない。「意思決定権のない最下層のタイピスト」が手紙を寄越す。私の会社員時代の社長は若い頃英国の銀行に修行で勤めていたことがあったので、彼は援護射撃で、皮肉タップリに向こうの会社の社長に、「私の名代にR&Fをそちらへ送る。一切の決定権は彼にあるので良く相談してくれ」と手紙を出しました。その時の彼らの豹変・狼狽ぶりは面白かった。
日本の若い世代を見ていると、一部でアメリカ英語の「ネイザル・サウンド」(鼻声)を真似て、アメリカの大学認定英語資格取得に燃え、良い色のカードを持つのに必死の人をみますが、
「まあ、そういうのは、計画的にすべてを自分たちの国の価値観へ引き寄せる『レール』だから、もっとクールに眺めたほうが良いんじゃないかな。鼻声発音は彼らの多くが中西部の小麦耕作地帯で小麦花粉症(ヘイ・フィーヴァー)にかかっているからだし、真似することは無いよ。」
と若い人たちには言っています。
007の「ダイ・アナザー・ディ」のなかで、ボンドがパジャマのズボンだけでホテルのカウンターへ行き、部屋を頼むシーンがありますが、あれがなかなかいい。相手が、
「クレジット・カードをお持ちで?」
と聞く。そこでカードの色でもう、ふるいにかけようとする。
じつは私は某アメリカ系カードの会社の重役を長年知っているのですが、奥さんはアメリカ人。住んでいるところは東京のアメリカの租界と言う感じのところ。彼自身、まったくアメリカそのものの感じです。私は彼は日系アメリカ人だと思っていた。じつは日本生まれ、日本育ちのその人は、日本の名前もあるはずなのですが、私は30年近く知っているのに、英語のファーストネームと日本語の苗字しか知りません。(私もジェローム雷神とかにするか?爆、聖人の名前とPagan ? There is a contradiction of the names.)
ある意味、彼は今後のアメリカへ寄り添う日本のひとつのビジネス・エリートのタイプなのでしょうが、英国派の私は最後までそういう我が国のアメリカニズム推進傾向には反抗したいと思っています。
私は持ち物では見ない。シェークスピアの言ったように What manner of man ?と聞くでしょう。