昔は「晴耕雨読」をやすらぐ生活の理想としていたわけですが、時代が進歩するほどにそうした生活は難しくなりました。
雨露しのぐ家があり、雨の日に雨に濡れないですむしあわせ。
いまでも少し古風な職人さんのところへ発注とかあがったものの引き取りにゆくと「足元の悪い中、、」という枕詞がつきます。
今日は図面を前にしての打ち合わせが入るはずだったのですが、先方は小型二輪車移動の人なので「この雨の中、往復3時間バイク」というのもたいへんなので、今日は流れました。電車だったらそうとうかかるんではないか?
お互い別の作業にとりかかっていればいいわけで、トータルの時間は同じはずです。
私は英国がヨーロッパのなかで手工芸、職人仕事があれほど残った理由のひとつは「のべつ雨が降っている天気」がそうとう影響したのではないかと考えています。イタリアの南部やギリシャの天気の良いところで、家にこもって細かい作業をしている図は思い浮かばない。ギリシャ彫刻はまあ、地中海のふりそそぐ光のなかで、美男美女コンテストをやって、当時はカメラがないので「彫刻で残そう」ぐらいに考えた気がする。
というのは、この間の週末に会ったひとがギリシャ製のパウチを持っていたのですが、なんとも不器用な小学生がいやいやながら家庭科でつくったような仕上がりでした。
それが中東まで行くと、こんどは暑くて外出できず、絨毯を織ったりする。タイとかバリなどは日本と負けず劣らず緻密な手作業が得意ですが、あれはモンスーンで梅雨があるアジア稲作地帯特有な気性の気がします。むかし、バリでガルーダの像を彫っている老人のドキュメンタリーを見たことがありますが、終始雨のなかで、長い軒先から落ちる水滴を見てときおり休み、また彫るという繰り返しでした。
ドイツとかスイス、オーストリアなら、「寒さ」が雨の替わりになる。ですので、イタリアでもそういう細工物に関しては北部が圧倒的に強い。
野性動物の世界でも、よほど腹が減っていないかぎりは、ひどい雨や雪のなかは出てゆかない。のべつお腹がすいている鳥たちですら、雀、オナガ、ヒヨ、カラスなどはコヌカ雨ぐらいまでは出勤しますが、今日ぐらいになると出て歩いていない。
「雨の日に屋根のある家の中にいられる」というのは、たいへんな文明の恩恵なわけですが、このありがたさの感覚が薄れてきているのが現代なのではないか。誰でも雨の中出て歩くのはおっくうなわけで、たぶん、二輪車のほうへ来ないで、自動車世界にかたくなに残ろうとする人の多くは、「雨のこと」を考えているのだと思う。雨の満員電車の中なども嫌なものです。
ドイツの人が英国へ行くと、家の汚さが我慢できないといいます。それは英国特有の、雨に濡れたまま家の中に入り、玄関などが表と外の中間になっているような感じが嫌だという。それは「天候」と切り離せない。
私はそこがまさしく、英国の家が、一昔前の土間のある日本家屋のようで好きなのです。土間で自分の自転車の作業の出来る日本の古い農家に住むのが夢だったりします。ベルリンやウイーンのアパートは、一階からの階段エリアが巨大で豪華です。そこで完全に「外」と切り離してから厚いドアを開けて家へ入るイメージ。
たぶん、ベルリーナ、ヴェニール、オーストライヒャ(ベルリンっ子、ウイーンっ子)がどんな日本の高級マンションにきても、入り口・階段エリアがすべて失格だと思うに違いありません。「ただの冷たい無機質な通路」に見える。
そのドイツでは通勤時間を少なくして、かつ働く時の移動時間と移動に費やすエネルギーを少なくするためにオフィスと住宅をモザイク状に作ることをミュンヘンなどでは意識的にやっています。日本ではその真逆をやっている。住宅はどんどん遠くへ作り、線路はどんどんのび、駅前は鉄道会社が開発し、駅ビルの中の店も駅からのバスも、タクシーも、不動産屋も、建設も鉄道会社がやる。経済規模は大きくなる一方、エネルギー消費は増え「ひっこみがつかなくなる」。人はますます自家用車に頼る。この狭い石油資源のない日本で。
「雨だから自動車チョィ乗り」という感覚が捨てられず、日本中の自動車がすべて電気自動車になると、この地震頻発列島に、さらにゲンパツを200以上増設しないといけない計算になる。もう狂気の沙汰としか言いようがない。自動車そのものはCO2を出さなくても、その電力のほうでリアクターや使用済み燃料の冷却などで膨大な熱が発生し、地球をCO2を出さない別種の熱で暖めている。
「用をなせばいい」「便利さをどこまでも追求する」という合理的な考えは、一切の原始時代からの記憶と本能的なやすらぎの感覚に蓋をしてしまうのではないか?インターネットが発達し、長距離通勤も減り、たまには雨の日に家にいられ、晴れたら空気の良いなかへ自転車で出てゆける、、そういうところを未来は目指したいものです。便利になったぶん、その便利さに小突き回され、GPSで自分の動きまで管理され、電気自動車に乗り、見えるところにゲンパツがあるのが未来像なら、進歩と言うのは嫌なものだな、と思います。
雨露しのぐ家があり、雨の日に雨に濡れないですむしあわせ。
いまでも少し古風な職人さんのところへ発注とかあがったものの引き取りにゆくと「足元の悪い中、、」という枕詞がつきます。
今日は図面を前にしての打ち合わせが入るはずだったのですが、先方は小型二輪車移動の人なので「この雨の中、往復3時間バイク」というのもたいへんなので、今日は流れました。電車だったらそうとうかかるんではないか?
お互い別の作業にとりかかっていればいいわけで、トータルの時間は同じはずです。
私は英国がヨーロッパのなかで手工芸、職人仕事があれほど残った理由のひとつは「のべつ雨が降っている天気」がそうとう影響したのではないかと考えています。イタリアの南部やギリシャの天気の良いところで、家にこもって細かい作業をしている図は思い浮かばない。ギリシャ彫刻はまあ、地中海のふりそそぐ光のなかで、美男美女コンテストをやって、当時はカメラがないので「彫刻で残そう」ぐらいに考えた気がする。
というのは、この間の週末に会ったひとがギリシャ製のパウチを持っていたのですが、なんとも不器用な小学生がいやいやながら家庭科でつくったような仕上がりでした。
それが中東まで行くと、こんどは暑くて外出できず、絨毯を織ったりする。タイとかバリなどは日本と負けず劣らず緻密な手作業が得意ですが、あれはモンスーンで梅雨があるアジア稲作地帯特有な気性の気がします。むかし、バリでガルーダの像を彫っている老人のドキュメンタリーを見たことがありますが、終始雨のなかで、長い軒先から落ちる水滴を見てときおり休み、また彫るという繰り返しでした。
ドイツとかスイス、オーストリアなら、「寒さ」が雨の替わりになる。ですので、イタリアでもそういう細工物に関しては北部が圧倒的に強い。
野性動物の世界でも、よほど腹が減っていないかぎりは、ひどい雨や雪のなかは出てゆかない。のべつお腹がすいている鳥たちですら、雀、オナガ、ヒヨ、カラスなどはコヌカ雨ぐらいまでは出勤しますが、今日ぐらいになると出て歩いていない。
「雨の日に屋根のある家の中にいられる」というのは、たいへんな文明の恩恵なわけですが、このありがたさの感覚が薄れてきているのが現代なのではないか。誰でも雨の中出て歩くのはおっくうなわけで、たぶん、二輪車のほうへ来ないで、自動車世界にかたくなに残ろうとする人の多くは、「雨のこと」を考えているのだと思う。雨の満員電車の中なども嫌なものです。
ドイツの人が英国へ行くと、家の汚さが我慢できないといいます。それは英国特有の、雨に濡れたまま家の中に入り、玄関などが表と外の中間になっているような感じが嫌だという。それは「天候」と切り離せない。
私はそこがまさしく、英国の家が、一昔前の土間のある日本家屋のようで好きなのです。土間で自分の自転車の作業の出来る日本の古い農家に住むのが夢だったりします。ベルリンやウイーンのアパートは、一階からの階段エリアが巨大で豪華です。そこで完全に「外」と切り離してから厚いドアを開けて家へ入るイメージ。
たぶん、ベルリーナ、ヴェニール、オーストライヒャ(ベルリンっ子、ウイーンっ子)がどんな日本の高級マンションにきても、入り口・階段エリアがすべて失格だと思うに違いありません。「ただの冷たい無機質な通路」に見える。
そのドイツでは通勤時間を少なくして、かつ働く時の移動時間と移動に費やすエネルギーを少なくするためにオフィスと住宅をモザイク状に作ることをミュンヘンなどでは意識的にやっています。日本ではその真逆をやっている。住宅はどんどん遠くへ作り、線路はどんどんのび、駅前は鉄道会社が開発し、駅ビルの中の店も駅からのバスも、タクシーも、不動産屋も、建設も鉄道会社がやる。経済規模は大きくなる一方、エネルギー消費は増え「ひっこみがつかなくなる」。人はますます自家用車に頼る。この狭い石油資源のない日本で。
「雨だから自動車チョィ乗り」という感覚が捨てられず、日本中の自動車がすべて電気自動車になると、この地震頻発列島に、さらにゲンパツを200以上増設しないといけない計算になる。もう狂気の沙汰としか言いようがない。自動車そのものはCO2を出さなくても、その電力のほうでリアクターや使用済み燃料の冷却などで膨大な熱が発生し、地球をCO2を出さない別種の熱で暖めている。
「用をなせばいい」「便利さをどこまでも追求する」という合理的な考えは、一切の原始時代からの記憶と本能的なやすらぎの感覚に蓋をしてしまうのではないか?インターネットが発達し、長距離通勤も減り、たまには雨の日に家にいられ、晴れたら空気の良いなかへ自転車で出てゆける、、そういうところを未来は目指したいものです。便利になったぶん、その便利さに小突き回され、GPSで自分の動きまで管理され、電気自動車に乗り、見えるところにゲンパツがあるのが未来像なら、進歩と言うのは嫌なものだな、と思います。