思い返してみると、私の父は屋外での食事を好みました。ものごころ付いた頃から、野原や川辺や山の上で食事をすることが多かった。
そういうことは「原体験」として深くこどものこころに刻まれるような気がします。
ところが最近は、休みの週末には、ファーストフード、安いファミレスや「300円イタリアン」などはこども連れでごったがえしている。
1970年ぐらいまでのフランスの自動車などは、行った先でクルマのシートをはずし、地面にソファーとして置けるようなものもありました。そして、彼らはクルマを停め「全員が前を向いて車中でシートに座ったまま食事をしたり、ものを飲んだりしている人たちを哂っていた」。
しかし、いまやああいう自動車は絶滅しました。車内にカップホルダーがあるのは珍しくない。走ったまま飲む。
もはや、花粉、黄砂、各種汚染で、外でのんびり食事と言う気分でないことも事実です。
その私のうちでも1978年ごろからそういう「ドライブ」はなくなりました。高速道路網が完成するにつけ、食事は高速のドライブインを利用することが増えた。
その反動で、私は自転車で80年代~90年代に「野点」をよくやっていましたが、諸環境がここ2年のあいだに極端に悪くなった。
私の幼児時代、はっきり覚えているのは、秋川やあちこちの川の水で父は米をとぎ、その水で炊いていた記憶があります。小学校の時、遠足でみんなで飯盒炊飯をやるから、と言われて、グループでひとつ飯盒を持ってくるように言われた記憶があります。いまの学校はそういうことはやらないでしょう。
私が四国を自転車で走っていたとき、上に何もない山の中腹に「弘法井戸」があって、そこの水がやたら美味く、こども時代を思い出して感激しました。「清水なので、沸かしてお茶に使い、即日使い切るように」と書いて、ペットボトルにいれ、親類や友人に翌日着の宅急便で送りました。
私はあれこそ「日本のよいところ」だと思うのです。時代劇などをみていると、旅の浪人が沢へ降りて、竹の水筒に水を汲んでくる、そういう自然は世界的にもあまりない。ああいう環境をこそ、日本に数多く残したかった。
8年程前、ずいぶん山の中までヨーロッパからの友人と行きましたが、渓流には膜のような泡が岩の下にあって、「海のような匂いがする」と、その友人は警戒して水で手も洗わなかった。私も匂うな、と思いました。なんとも残念。
そういう事態は、水だけでなく、空気にも及びつつある。
先週の煙霧の日、友人がエアクリーナーの付いていない古いモーターサイクルで走っていて、自宅に戻ってバイクをガレージにいれ、表へ出たら真っ黄色でじゃりじゃりで危機一髪だったそうです。
「人間もエアクリーナーが付いていない」わけですが、マスクをしていたら、いちじるしく自転車の場合興を削がれる。
その意味、自転車は環境を守るものでもあり、また環境が守られていなければ威力を発揮できないものでもある。
自転車愛好家で、自然保護に無関心・無頓着というのは本来ありえないのではないかな?と思うこのごろです。
白黒の写真は私が小学校のときに写したものですが、場所は津久井湖の近くです。こんなに大きい木をどんどん伐ってたことに驚かされます。写真を写したあのあたりで、いま、このくらいのサイズの木はまず見られません。