クリスマスになるとさまざまな過去のクリスマスのことを思い出します。
私がこどものころ、もみの木に飾りつけをして、そこへ電球がスズナリにつく「仕上げ」をするのが楽しみでした。
それはいま思うとずいぶんと日本的な電球だったと思うのです。さまざまなカタチの電球の外側が、手で絵付けされていました。電球それ自体のカタチも提灯のカタチだったり、人のカタチだったり、ピエロだったり、なかにはダルマもあって、今から思うと「クリスマスにダルマ?」と思いますが、そういう和洋折衷が楽しかった。たぶん戦後輸出用に作られたと思うのです。
それというのも、英国のアンテイック・マーケットでまったく同じものを見たからでした。
あとから、父はブルーの尖った電球のいっぱいついた電飾を買い足しましたが、こどもごころにも「いまひとつ、自分のこころの深いところに届かない」のを感じた記憶があります。これは点滅したのですが、すぐ点滅しなくなった。
たぶん「ダルマ・クリスマス電球」は戦後、なんとか復興しよう、外貨を稼ごう、世の中を楽しくしようと多くの職工さんが筆を無心に走らせて絵付けをしていたのだと思います。そういう気概は幼い私にも届いた。
その当時の贅沢といえば、不二家はその頃からローストチキンをやっていました。ほかに東京で出てきていた店の記憶がないのです。クリスマスにチキンを食べると言う人自体、当時はいませんでした。行列はなかった記憶がある。
クリスマス・イヴに買いに行き、そしてフルーツパーラーで「バナナ・ボート」とか「フルーツ・ボート」を食べるのが、もう至上の幸福。最近はそういうメニューは見なくなりましたが、舟形のガラス器にバナナとかメロンの薄切りを入れて、クリームとアイスクリームを載せ、プリンが載っていた。
2012年のクリスマス光景からするとなんとも地味です。バナナ・ボートなどでも、たぶん当時は、この時期の石鹸箱ほどの小さい高級チョコレートより安かっただろうと思うのです。
そしておもちゃ。あるいは本。私はクリスマスにはいつもおもちゃと本と1品づつ朝起きると枕元にあったのを覚えています。父と母と、どっちがどっちの担当だったのかわかりませんが、おもちゃと本とひとつづつというのは良いアイデアだと思います。おもちゃは感動の持続時間が短いですから。その点、本はじわじわくる。
あふれかえる「物」の記憶」はありません。過去にクリスマスにもらったものを、こどもの私はコレクションにしていましたが、こどもですから5個とか6個とかしかない。他の親戚などからもらったものをいれても、かさばるほどではありませんでした。
このごろ、よその家のこどもたちがこの時期もらっているおもちゃを見ると、電子的なゲームとかが多い。スペアのコントローラーだったり。新しいハードだったり、ソフトだったり。もちろん朝枕元にあるようなことはありません。早い場合は22日ぐらいから店へ見に行っている。見せてもらうと取り説の図はいかにもコンピューターで描いたキャラクターで、「ダルマ・クリスマス電球、提灯電球」のフリーハンドの人間味あふれる柔らかさ、ぬくもりはありません。店へ見に行くのですから、サンタも死んでしまった。
朝ものを枕元に発見するのは「ある意味一方通行で、物質的、即物的になるのを止めていた」と思うのです。
それが現代式のレールで歳を重ねてゆくとどうなるのか?
この年末に、賑やかな安売りエリアを抜けた時、昔はその場所は食料品の安いのを売っていた記憶があるのです。ところがずいぶんと香水や時計を安売りしていました。なかには「どれでも一個1000円」とか、「ケースの中どれでも800円の腕時計」とかが並んでいました。「どうやったらこの価格で売れるのかな?」という感じでした。まずほとんどが中国製。けっこう派手で、しっかり作りこんでいるものもありました。
1960~1970年代、アジア諸国を旅行すると、みんな「セイコーシャの腕時計が欲しい」と言ったものらしい。日本のそういうものを腕にして生活する日本人へのあこがれがあった。これは私が80年代末にインドにいた時も、「機械式時計を持っていないか?」とずいぶん訊かれました。あの時代には、「みんながあこがれるハードウエアーとソフトウエアーの両方が日本の中にあった」。それが輸出に貢献したと思えます。
それがいまや純日本製ハードウエアは消滅。中国製の「肌一枚の深さの表面的製品」があらゆる分野であふれかえっている。
この12月はじつに不思議なよい体験をしまして、その安売りエリアを抜けて、同じく超高級品の安売り店へ入ってみたのですが、どういうわけか、「店内の印象がまるで同じ」、に感じました。並んでいるものも価格は違いますが似た雰囲気を漂わせている。
はじめて英国へ行った時、バンヤンの「ピルグリムズ・プログレス」の本をくれた人がありました。そのなかに「虚栄の町」Vanity Cityというのが出てきていました。私はふと、物があふれる今の日本、少しでも安く作って利を大きく、というのがVanity Cityの様子に似ていると感じたのです。
ものがあふれるのに、何一つとしてこころの琴線にふれる本質的なものが見当たらない感覚。
私がこどものころ、ケーキはなぜか近所のケーキ屋で買っていました。普段はおやつ用にケーキの台の切り落しをビニールに入れておやつ用に売っていました。これにはところどころ、かなり焦げたところがあって、そのカステラの茶色の底みたいな味がよかった。
クリスマスには、そういう顔見知りの家内工業的な店で買う。行列も騒がれるブランドを手に入れるフィーヴァーも関係ありませんでした。
ふと最近はそういう昔が懐かしくなります。
英国時代、クリスマスの朝、人気のない道路を教会から家へ歩いていると、すれ違う人がパラパラいる。みんなそういう人たちが一人残らずメリークリスマス、ハッピークリスマスと声を掛けてくる。それは「ディッケンズの昔から変わっていない本物だな」と感心したものです。
そういう昔の日本と英国のクリスマスを知っている私には、昨今の東京のクリスマスは、コマーシャリズムどっぷりのハリボテのVanity Cityに見えてしかたがないのです。
私がこどものころ、もみの木に飾りつけをして、そこへ電球がスズナリにつく「仕上げ」をするのが楽しみでした。
それはいま思うとずいぶんと日本的な電球だったと思うのです。さまざまなカタチの電球の外側が、手で絵付けされていました。電球それ自体のカタチも提灯のカタチだったり、人のカタチだったり、ピエロだったり、なかにはダルマもあって、今から思うと「クリスマスにダルマ?」と思いますが、そういう和洋折衷が楽しかった。たぶん戦後輸出用に作られたと思うのです。
それというのも、英国のアンテイック・マーケットでまったく同じものを見たからでした。
あとから、父はブルーの尖った電球のいっぱいついた電飾を買い足しましたが、こどもごころにも「いまひとつ、自分のこころの深いところに届かない」のを感じた記憶があります。これは点滅したのですが、すぐ点滅しなくなった。
たぶん「ダルマ・クリスマス電球」は戦後、なんとか復興しよう、外貨を稼ごう、世の中を楽しくしようと多くの職工さんが筆を無心に走らせて絵付けをしていたのだと思います。そういう気概は幼い私にも届いた。
その当時の贅沢といえば、不二家はその頃からローストチキンをやっていました。ほかに東京で出てきていた店の記憶がないのです。クリスマスにチキンを食べると言う人自体、当時はいませんでした。行列はなかった記憶がある。
クリスマス・イヴに買いに行き、そしてフルーツパーラーで「バナナ・ボート」とか「フルーツ・ボート」を食べるのが、もう至上の幸福。最近はそういうメニューは見なくなりましたが、舟形のガラス器にバナナとかメロンの薄切りを入れて、クリームとアイスクリームを載せ、プリンが載っていた。
2012年のクリスマス光景からするとなんとも地味です。バナナ・ボートなどでも、たぶん当時は、この時期の石鹸箱ほどの小さい高級チョコレートより安かっただろうと思うのです。
そしておもちゃ。あるいは本。私はクリスマスにはいつもおもちゃと本と1品づつ朝起きると枕元にあったのを覚えています。父と母と、どっちがどっちの担当だったのかわかりませんが、おもちゃと本とひとつづつというのは良いアイデアだと思います。おもちゃは感動の持続時間が短いですから。その点、本はじわじわくる。
あふれかえる「物」の記憶」はありません。過去にクリスマスにもらったものを、こどもの私はコレクションにしていましたが、こどもですから5個とか6個とかしかない。他の親戚などからもらったものをいれても、かさばるほどではありませんでした。
このごろ、よその家のこどもたちがこの時期もらっているおもちゃを見ると、電子的なゲームとかが多い。スペアのコントローラーだったり。新しいハードだったり、ソフトだったり。もちろん朝枕元にあるようなことはありません。早い場合は22日ぐらいから店へ見に行っている。見せてもらうと取り説の図はいかにもコンピューターで描いたキャラクターで、「ダルマ・クリスマス電球、提灯電球」のフリーハンドの人間味あふれる柔らかさ、ぬくもりはありません。店へ見に行くのですから、サンタも死んでしまった。
朝ものを枕元に発見するのは「ある意味一方通行で、物質的、即物的になるのを止めていた」と思うのです。
それが現代式のレールで歳を重ねてゆくとどうなるのか?
この年末に、賑やかな安売りエリアを抜けた時、昔はその場所は食料品の安いのを売っていた記憶があるのです。ところがずいぶんと香水や時計を安売りしていました。なかには「どれでも一個1000円」とか、「ケースの中どれでも800円の腕時計」とかが並んでいました。「どうやったらこの価格で売れるのかな?」という感じでした。まずほとんどが中国製。けっこう派手で、しっかり作りこんでいるものもありました。
1960~1970年代、アジア諸国を旅行すると、みんな「セイコーシャの腕時計が欲しい」と言ったものらしい。日本のそういうものを腕にして生活する日本人へのあこがれがあった。これは私が80年代末にインドにいた時も、「機械式時計を持っていないか?」とずいぶん訊かれました。あの時代には、「みんながあこがれるハードウエアーとソフトウエアーの両方が日本の中にあった」。それが輸出に貢献したと思えます。
それがいまや純日本製ハードウエアは消滅。中国製の「肌一枚の深さの表面的製品」があらゆる分野であふれかえっている。
この12月はじつに不思議なよい体験をしまして、その安売りエリアを抜けて、同じく超高級品の安売り店へ入ってみたのですが、どういうわけか、「店内の印象がまるで同じ」、に感じました。並んでいるものも価格は違いますが似た雰囲気を漂わせている。
はじめて英国へ行った時、バンヤンの「ピルグリムズ・プログレス」の本をくれた人がありました。そのなかに「虚栄の町」Vanity Cityというのが出てきていました。私はふと、物があふれる今の日本、少しでも安く作って利を大きく、というのがVanity Cityの様子に似ていると感じたのです。
ものがあふれるのに、何一つとしてこころの琴線にふれる本質的なものが見当たらない感覚。
私がこどものころ、ケーキはなぜか近所のケーキ屋で買っていました。普段はおやつ用にケーキの台の切り落しをビニールに入れておやつ用に売っていました。これにはところどころ、かなり焦げたところがあって、そのカステラの茶色の底みたいな味がよかった。
クリスマスには、そういう顔見知りの家内工業的な店で買う。行列も騒がれるブランドを手に入れるフィーヴァーも関係ありませんでした。
ふと最近はそういう昔が懐かしくなります。
英国時代、クリスマスの朝、人気のない道路を教会から家へ歩いていると、すれ違う人がパラパラいる。みんなそういう人たちが一人残らずメリークリスマス、ハッピークリスマスと声を掛けてくる。それは「ディッケンズの昔から変わっていない本物だな」と感心したものです。
そういう昔の日本と英国のクリスマスを知っている私には、昨今の東京のクリスマスは、コマーシャリズムどっぷりのハリボテのVanity Cityに見えてしかたがないのです。