友人のヨガの先生と話していて、(というか、その友人がヨガの先生だったことを、最近まで私は知らなかったのですが、別の体操系の先生であることしか知らなかった)その友人が、ヨガを教えたり自分でやっているときに、身体を壊す人をずいぶん見て、流派を数回変えているという話が出た。そこで、話がかなり深まったところまでいったのが、ブログで書くきっかけになったのでした。その友人も私が半世紀近くやっていることを知らなかった。
私は、どうもヨガも自転車世界でのロードレーサー偏重と、構図がよく似ているなと思った。
つい最近、インドのヨーガの資格を持ってヨガを教えている片岡鶴太郎さんが、デモンストレーション
をしていた時、膝が噛んだようになってしまって、動かなくなり、激痛が走って手術しなければならなくなったことは記憶に新しい。
500年前だったら、いや、100年前ですら、『第三者に手術で解決してもらう解決はありえなかった』はずです。一生そのままだったと考えられる。500年前だったら、自分で食物をとりに出かけることが出来ないので、人生終了だったでしょう。最近、アメリカ人のヨガの先生がハワイで林の中でヨガをやっている最中に足首を骨折して、遭難して、あわやアウトのときにヘリコプターに発見されて、一命をとりとめたニュースが出ていた。
これは、ロードレーサーの『ショートホイールベース、ヘッドアングルが切り立って、高剛性のリム、高剛性のフレーム、利きすぎるブレーキ、トラックレーサー並みに強い前傾姿勢、軽すぎる車重』で、前輪が滑ってグリップを失ったりして、発泡スチロールの上の重しがころがり落ちるように、飛び込み前転で首や背骨を打つのも同じだろう。『車椅子』どころではなく、100年前の医療なら、そこで人生は終了していた。
アイアンガー師は西欧にヨーガを広めたたいへんな功労者でしたが、私は彼には『功罪』という面もあったと考えている。こうしたことは日本語でヨーガをとらえているとわかりませんが、彼の本を読むと、『神』というのが『大文字で書いてある』。神を大文字で書くというのは、それはユダヤ教、キリスト教の神であって、ヒンドゥー教のシヴァやドゥルガー、パールヴァ―ティーなどではないことを意味する。
彼の本の中には、こういう一節がある。『プラーナとは、中国で言うCHIであり、日本でいう気であり、西洋で言うなら聖三位一体の聖霊である』と。これはずいぶんとおかしなことを言っているなと思う。これを言ったから、彼はキリスト教圏でうまくヨーガを広められたのかもしれないが、私は逸脱だと考える。
つまり、ヤハウェが宇宙に満ち溢れているプラーナで、聖霊がこころのうちにあり、肉体はイエスで、それらを合一化させる(ヨーガには結びつけるという意味がある)のがヨーガである、とアイアンガー師は語って、納得する人が多数出たということなのだろう。
『瞑想の中で、こころが真我と梵に一致したすがたにならぬかぎり、どんな知識を語ろうと、それは慢心からくる喋り過ぎにすぎない』ハタ・ヨーガ・プラクディーピカ
彼は若い頃の自らを語っているが、西洋文明に対して、たいへんな対抗心を燃やしていたことがほのみえる。彼は路上でみすぼらしく布施を受ける行者にはなりたくなかった、そこで西洋にうって出たというようなことを言っている。そこで、彼は『他の人には出来ないようなポーズ、彼にしか出来ないポーズが出来た』ということが役に立った。
晩年、彼は彼の弟子に2人、トップクラスのバレェのダンサーがいたことを語っていて、彼女らは身体が柔軟で、どのポーズでもすぐにとれたことが、逆に良くなかったと言っている。ヨーガにはPAIN、苦痛が必要だ、と。肉体というカンヴァスを、苦痛によって広げて行き、そこで精神的な地平がひろがると説く。
私は、そういう点で、アイアンガー師は『苦行派』なのだな、と思う。ヨーガの祖パタンジャリはヨーガスートラの中で、数行、仏教の『唯識』に対抗する説を語っている部分がある。
このあたりが、私にとって、釈尊の時代のインドの思想背景を立体的にとらえるために、ヨーガは役に立ったし、面白かった。どこが似ていて、どこからが違うのか?
ヨーガでは人間は血管をはじめとして、あまたの管で出来ているとみる。食べ過ぎると、食べ過ぎた分はすべて毒となり、その管を詰まらせ病気なる。なので、過食を慎み、身体をつねに清浄に保つ、、ここまでは納得できる。ただ毎日布のテープを呑み込んで体内掃除をしたり、鼻から布を入れて口へ出して、掃除をするとかいうのは、私はいいやと思います(笑)。
その『くだを綺麗にする』ために、『ナウリ』という内臓を引き上げたり、左右に動かしたりする行もある。私はそのナウリの様子を見ると、『ああ、釈尊もやっておられたののだな』と思う。釈尊が木の下に坐って、痩せ細っている石彫が残されている。ナウリを最初に見て思ったのは、あの石彫だった。スジャータの供養を受ける前の様子を描いた石彫です。
釈尊の舌は長かったという記録が仏典に散見される。あごの先をなめられたとか。ヨーガでは舌の裏のスジを少しづつ切って、舌を伸ばしてゆく『苦行』がある。そして頭蓋骨の穴の先にある空洞に舌先を入れてふさげるようになると、、と書いてあるのだが、どこにある穴なのか医学的にはわかりません(笑)。そこから滴り落ちるソーマをなめられるようになると、SHIを克服でき、霊力を得て、天女を脇に引き寄せられるとハタ・ヨーガの本に書いてある。
釈尊はひととおり、そうした苦行をやってみて、苦行は無用と捨てたわけです。
私もハタ・ヨーガ・プラディーピカーにあるような『インケーから水を吸い上げられるようになる修行』とかはやらない(爆)。『一度シャセーしたものを女性の体内から吸い上げて、、』などとも書いてありますが、私はそういうことも無視。まったく意味がない。やりたい人は一生やってみて、そうした技を身に付けたらよい。勝手にやってください。
そうすると、そうした要素を取り去り、医学的なスタンスを取り入れとやってゆくと、美容体操的になってしまう。あるいはボディビルのデモンストレーションで、ポーズの連続で、人を驚かせるようなタイプに陥りやすい。
コンビニにある雑誌などで、海外のモデルさんですでにカッコ良い人を連れてきて、それをするとカッコよくなるかのごとくに書いているものがある。『買う人は突発性ハリキリ症の人たち』。ヨーガもアメリカではそういう傾向が強まっているように見える。Youtuberにもずいぶんそういうタイプが多い。
私は取り入れるべきものは取り入れ、ゆる~~~くやっている。首の違和感もヨーガのおかげで1割ぐらいまで減っている。効果はたしかにあるのです。ただし、やりすぎる必要はない。
『ラージャ・ヨーガを知らず、ひたすらハタ・ヨーガを修行する人が多い。彼らは努力のかいのないことをひたすら繰り返しているにすぎない』
ハタ・ヨーガ・プラディーピカー
私は、どうもヨガも自転車世界でのロードレーサー偏重と、構図がよく似ているなと思った。
つい最近、インドのヨーガの資格を持ってヨガを教えている片岡鶴太郎さんが、デモンストレーション
をしていた時、膝が噛んだようになってしまって、動かなくなり、激痛が走って手術しなければならなくなったことは記憶に新しい。
500年前だったら、いや、100年前ですら、『第三者に手術で解決してもらう解決はありえなかった』はずです。一生そのままだったと考えられる。500年前だったら、自分で食物をとりに出かけることが出来ないので、人生終了だったでしょう。最近、アメリカ人のヨガの先生がハワイで林の中でヨガをやっている最中に足首を骨折して、遭難して、あわやアウトのときにヘリコプターに発見されて、一命をとりとめたニュースが出ていた。
これは、ロードレーサーの『ショートホイールベース、ヘッドアングルが切り立って、高剛性のリム、高剛性のフレーム、利きすぎるブレーキ、トラックレーサー並みに強い前傾姿勢、軽すぎる車重』で、前輪が滑ってグリップを失ったりして、発泡スチロールの上の重しがころがり落ちるように、飛び込み前転で首や背骨を打つのも同じだろう。『車椅子』どころではなく、100年前の医療なら、そこで人生は終了していた。
アイアンガー師は西欧にヨーガを広めたたいへんな功労者でしたが、私は彼には『功罪』という面もあったと考えている。こうしたことは日本語でヨーガをとらえているとわかりませんが、彼の本を読むと、『神』というのが『大文字で書いてある』。神を大文字で書くというのは、それはユダヤ教、キリスト教の神であって、ヒンドゥー教のシヴァやドゥルガー、パールヴァ―ティーなどではないことを意味する。
彼の本の中には、こういう一節がある。『プラーナとは、中国で言うCHIであり、日本でいう気であり、西洋で言うなら聖三位一体の聖霊である』と。これはずいぶんとおかしなことを言っているなと思う。これを言ったから、彼はキリスト教圏でうまくヨーガを広められたのかもしれないが、私は逸脱だと考える。
つまり、ヤハウェが宇宙に満ち溢れているプラーナで、聖霊がこころのうちにあり、肉体はイエスで、それらを合一化させる(ヨーガには結びつけるという意味がある)のがヨーガである、とアイアンガー師は語って、納得する人が多数出たということなのだろう。
『瞑想の中で、こころが真我と梵に一致したすがたにならぬかぎり、どんな知識を語ろうと、それは慢心からくる喋り過ぎにすぎない』ハタ・ヨーガ・プラクディーピカ
彼は若い頃の自らを語っているが、西洋文明に対して、たいへんな対抗心を燃やしていたことがほのみえる。彼は路上でみすぼらしく布施を受ける行者にはなりたくなかった、そこで西洋にうって出たというようなことを言っている。そこで、彼は『他の人には出来ないようなポーズ、彼にしか出来ないポーズが出来た』ということが役に立った。
晩年、彼は彼の弟子に2人、トップクラスのバレェのダンサーがいたことを語っていて、彼女らは身体が柔軟で、どのポーズでもすぐにとれたことが、逆に良くなかったと言っている。ヨーガにはPAIN、苦痛が必要だ、と。肉体というカンヴァスを、苦痛によって広げて行き、そこで精神的な地平がひろがると説く。
私は、そういう点で、アイアンガー師は『苦行派』なのだな、と思う。ヨーガの祖パタンジャリはヨーガスートラの中で、数行、仏教の『唯識』に対抗する説を語っている部分がある。
このあたりが、私にとって、釈尊の時代のインドの思想背景を立体的にとらえるために、ヨーガは役に立ったし、面白かった。どこが似ていて、どこからが違うのか?
ヨーガでは人間は血管をはじめとして、あまたの管で出来ているとみる。食べ過ぎると、食べ過ぎた分はすべて毒となり、その管を詰まらせ病気なる。なので、過食を慎み、身体をつねに清浄に保つ、、ここまでは納得できる。ただ毎日布のテープを呑み込んで体内掃除をしたり、鼻から布を入れて口へ出して、掃除をするとかいうのは、私はいいやと思います(笑)。
その『くだを綺麗にする』ために、『ナウリ』という内臓を引き上げたり、左右に動かしたりする行もある。私はそのナウリの様子を見ると、『ああ、釈尊もやっておられたののだな』と思う。釈尊が木の下に坐って、痩せ細っている石彫が残されている。ナウリを最初に見て思ったのは、あの石彫だった。スジャータの供養を受ける前の様子を描いた石彫です。
釈尊の舌は長かったという記録が仏典に散見される。あごの先をなめられたとか。ヨーガでは舌の裏のスジを少しづつ切って、舌を伸ばしてゆく『苦行』がある。そして頭蓋骨の穴の先にある空洞に舌先を入れてふさげるようになると、、と書いてあるのだが、どこにある穴なのか医学的にはわかりません(笑)。そこから滴り落ちるソーマをなめられるようになると、SHIを克服でき、霊力を得て、天女を脇に引き寄せられるとハタ・ヨーガの本に書いてある。
釈尊はひととおり、そうした苦行をやってみて、苦行は無用と捨てたわけです。
私もハタ・ヨーガ・プラディーピカーにあるような『インケーから水を吸い上げられるようになる修行』とかはやらない(爆)。『一度シャセーしたものを女性の体内から吸い上げて、、』などとも書いてありますが、私はそういうことも無視。まったく意味がない。やりたい人は一生やってみて、そうした技を身に付けたらよい。勝手にやってください。
そうすると、そうした要素を取り去り、医学的なスタンスを取り入れとやってゆくと、美容体操的になってしまう。あるいはボディビルのデモンストレーションで、ポーズの連続で、人を驚かせるようなタイプに陥りやすい。
コンビニにある雑誌などで、海外のモデルさんですでにカッコ良い人を連れてきて、それをするとカッコよくなるかのごとくに書いているものがある。『買う人は突発性ハリキリ症の人たち』。ヨーガもアメリカではそういう傾向が強まっているように見える。Youtuberにもずいぶんそういうタイプが多い。
私は取り入れるべきものは取り入れ、ゆる~~~くやっている。首の違和感もヨーガのおかげで1割ぐらいまで減っている。効果はたしかにあるのです。ただし、やりすぎる必要はない。
『ラージャ・ヨーガを知らず、ひたすらハタ・ヨーガを修行する人が多い。彼らは努力のかいのないことをひたすら繰り返しているにすぎない』
ハタ・ヨーガ・プラディーピカー