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Channel: 英国式自転車生活
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昔とったきねづか?7

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今朝も朝4時に窓を開け放って、坐った。実に気持ちが良い。毎朝30分。これは禅の坐り方でも、ヨーガの坐り方でもよいと思う。ストレスが落ち、前日からの持越しの不安や怒り、すべてスッキリする。

この間、ブッダガヤへ行ってきたアメリカ人の友人とメールでやりとりしていて、自分はマインド・フルネスとかティック・ナット・ハンの『愛の瞑想』なるものにはくみしない、と言った。

『では、あなたにとっての瞑想とは何なのか?』と言われた。

私の答えは、一言で言えば『infinite awareness』、無限なるものを感じることだ、と言った。ここまでで、マインド・フルネスとも愛の瞑想とも違うことは相手に伝わる。

美しい明け方の空を見る。それをあるがままに観ずることは意外に難しい。『今日も暑くなりそうだ』とか『洗濯物をしようか?』とか『雲の色がどうだ』とか、多くの場合、言葉が浮かんでくる。そこから『考え』大脳皮質でいじくった『意識』が浮かんでくる。そこを空にしないと、その底にある無意識の海からの声は聞こえてこない。

直観、インスピレーションのたぐいは、その深層なる部分からしか生まれてこない。智慧も深層部分から湧いてくる。

つまり、意識を動かさないでいると、生まれてからこのかた見聞きしたこと、体験がすべて入っている深層部分からの声が聞こえるわけで、その声が常に正しい声となるように、深層部分をよい状態にして置かないといけない。

『言葉』と『考えること』が『時間をつくりだしている』。意識が働かないところでは時間はないと言ってよい。存在だけがある。般若心経の世界でも、『無い、無い、無い、無い』とやって行って、最後に無限なるものにぶちあたる。そして、そこを抜けたあとの境地は華厳経にみごとに書かれている。

『頭脳は言葉によって囚われてしまう』のだ。以上を英語で言ってみたらどうなるか?オリンピックで海外からの人が来たら、日本人たるもの英語でそのくらいのことは説明できてあたりまえだと思う。英文科の入学試験はそういう英作文と日本文化の一般教養でよいと私は考える。


意識が動くから時間が生まれる、体験、経験の時系列的な『たばねること』によって『自我』が生じるというのは最新の科学で認められている。つまりこの点で、仏教とヨーガの方が数千年先んじていた。そういう経験として束ねられた自我というのは、ほんとうの存在ではないということなのだ。


ここまでのinfinite awareness の考え方はヨーガも禅もよく似ている。現代のアシュタンガ・ヨーガは1990年代に出来たものだと前に書きましたが、その前のモデルになったものはアイアンガーのヨーガ。ここも前に書いた。そのアイアンガーの先生のクリシュナマチャラヤは、ヨーガの目的は意識を止めてみて、宇宙的な無限の時空の中にいる自分という存在を感じることだ、そのためには15分、30分、そうした情況がキープ出来ると良いのだが、数秒、数十秒でも、充分、その境地は腑に落ちるだろう、と言っていた。


そのクリシュナマチャラヤは生徒によって、まったく違うやりかたを教えていた。彼の妻には、じっくりと一つのポーズをゆっくりとやるやりかた。アイアンガーには次から次へとポーズを変え、アクロバット的にジャンプしたりして、脚を抜いたりさせていた。これは、マイソールのマハラジャのジャガモンパレスの王族たちが、クシャトリアらしく勇ましい武術的な感じでやりたがったからだった、とアイアンガーは語っていた。

クリシュナマチャラヤは、1930年代に、インドにあるさまざまなヨーガの流派の、混乱と矛盾を一度んなで話し合って、会議を開いてみないか?と、当時の名だたるヨーガの行者たちに手紙を出したことが知られている。しかし、手紙の返事はなく、この計画は立ち消えになった。

さて、それが英国へ渡り、アメリカへ渡り、今度はアメリカのフィルターを抜けて日本へ来て、なにやら美容体操のようになって、呼吸法の意味も、『無限の時空の中にいる自己存在』を感じる部分もどこかへすっ飛んでしまって、なにやら珈琲が、麦を焦がしたものを混ぜたアメリカン・コーヒー(WW2の前後、アメリカのコーヒーには麦焦がしが混ぜてあった)になったような、何とも不思議な気がする。

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