私の父が、よく『雑誌や新聞の見出しの政治家の顔写真をみると、だいたい行く末が見える』と言っていた。WW2の前夜は、ほんとうによろしくない顔の人が前面に出て来ていたという話をしていたのを思い出す。
数日前、ニュースで、何を記者に質問されても『次の質問どうぞ』と言って、一切答えない人がいた。彼の父親も私は感心しない人だと思っていたが、
『ああいう態度、応対は、英訳して、ヨーロッパとアメリカのクオリティ・ペーパーに1面広告で出したらよい。』
世界はどう考えるか?英国的に考えるなら、『国王の権力すら法の下にある』というマグナ・カルタを作った思想からすると、選出された人が選出した側に立つ者に対して、ああした傲慢な態度をとることは許されない。
英国のキャメロン元首相が、EU離脱に関しての国民投票の後、身を引いた時の一連の発言はじつに清々しく、フェアなものであった。私はキャメロン氏の見解に同意しないが、彼は立派な人であるとあの時思った。ああいうタイプの人は日本では見ないですね。
かつての、うちのネット上の書き込みのやりとりでもそうですが、現代日本人では、あきらかに誤っていて勝負がついているのに、あきらめずに決着後にも食い下がって来るのをよくみかける。
それを、事前に、一切自分のボロを出さないように、『官僚的な空の文字羅列で答えたり』というのが、ながらくこの国のやり方であったわけだが、そうすると、『まっとうな人は、そういうやりとりをしつこく追及して、理解して行こうという気が無くなる』。そこで、みんなが『ダメだこりゃ』と感心を失ったときに、好き勝手をやる。
こうしたことが、いつなくなるか?と私は半世紀以上待ったわけですが、ついに改まらなかった。むしろひどくなっている。そういう手段に食い下がって行く反対陣営の人たちも、やはり普通の感性から遠く離れた人たちばかりがのこってゆくのではないか?『普通の感覚の人たちの消失』がせーじの世界であるように私は思いますね。
まあ、しょーひぜーのことに関しても、ひどい官僚が考えそうな奇策だと思う。インターネットが使えなくて取り残された年齢層がいるように、カードが持てなくて取り残される『引退、隠居層』、『職人、芸術家、自営業など』の人たちは一気に割を食う。
そういうことを文章上で考える人たちは、どうでしょうね。タイプとして『かつての国立一期校、二期校あたりをでて、がり勉でそこそこ優秀な成績をおさめ、社会の枠組みの外へでて、何かを創造的に作り上げる能力が欠落している人たち』ではないのかな?と思う。
彼らはその数字上の煩雑さは気にならない。なんたって、『がり勉野郎』だったわけですから、気の滅入るような面倒な数字上、システム上の、退屈極まりない手間などは、何とも思わない。
彼らは煩雑なものに対して、ものすごい耐性がある。日本を退屈にしているメインの巨大な根っこは、そういう人たちと受験システムではないのかな?とよく思います。
日本のがり勉野郎受験システムは、そういうものすごく退屈に対して粘り強く、我慢強い、自由で創造的な生き方の出来ない人たちの天国へと向かって来ている(爆)。
私の親類にもお役人様が何人もいますが、1年のうちにコンサートも、演劇も、展覧会も、一度も行かない人たちがほとんど。唯一の趣味は『家』と『乗り物』だったりします。それは持っている金と引き換えのレディメードの趣味だから。
そういう人たちの上に君臨する『まつりごとのひとたち』も、人間離れした顔になっているように私には見える。
数日前、ニュースで、何を記者に質問されても『次の質問どうぞ』と言って、一切答えない人がいた。彼の父親も私は感心しない人だと思っていたが、
『ああいう態度、応対は、英訳して、ヨーロッパとアメリカのクオリティ・ペーパーに1面広告で出したらよい。』
世界はどう考えるか?英国的に考えるなら、『国王の権力すら法の下にある』というマグナ・カルタを作った思想からすると、選出された人が選出した側に立つ者に対して、ああした傲慢な態度をとることは許されない。
英国のキャメロン元首相が、EU離脱に関しての国民投票の後、身を引いた時の一連の発言はじつに清々しく、フェアなものであった。私はキャメロン氏の見解に同意しないが、彼は立派な人であるとあの時思った。ああいうタイプの人は日本では見ないですね。
かつての、うちのネット上の書き込みのやりとりでもそうですが、現代日本人では、あきらかに誤っていて勝負がついているのに、あきらめずに決着後にも食い下がって来るのをよくみかける。
それを、事前に、一切自分のボロを出さないように、『官僚的な空の文字羅列で答えたり』というのが、ながらくこの国のやり方であったわけだが、そうすると、『まっとうな人は、そういうやりとりをしつこく追及して、理解して行こうという気が無くなる』。そこで、みんなが『ダメだこりゃ』と感心を失ったときに、好き勝手をやる。
こうしたことが、いつなくなるか?と私は半世紀以上待ったわけですが、ついに改まらなかった。むしろひどくなっている。そういう手段に食い下がって行く反対陣営の人たちも、やはり普通の感性から遠く離れた人たちばかりがのこってゆくのではないか?『普通の感覚の人たちの消失』がせーじの世界であるように私は思いますね。
まあ、しょーひぜーのことに関しても、ひどい官僚が考えそうな奇策だと思う。インターネットが使えなくて取り残された年齢層がいるように、カードが持てなくて取り残される『引退、隠居層』、『職人、芸術家、自営業など』の人たちは一気に割を食う。
そういうことを文章上で考える人たちは、どうでしょうね。タイプとして『かつての国立一期校、二期校あたりをでて、がり勉でそこそこ優秀な成績をおさめ、社会の枠組みの外へでて、何かを創造的に作り上げる能力が欠落している人たち』ではないのかな?と思う。
彼らはその数字上の煩雑さは気にならない。なんたって、『がり勉野郎』だったわけですから、気の滅入るような面倒な数字上、システム上の、退屈極まりない手間などは、何とも思わない。
彼らは煩雑なものに対して、ものすごい耐性がある。日本を退屈にしているメインの巨大な根っこは、そういう人たちと受験システムではないのかな?とよく思います。
日本のがり勉野郎受験システムは、そういうものすごく退屈に対して粘り強く、我慢強い、自由で創造的な生き方の出来ない人たちの天国へと向かって来ている(爆)。
私の親類にもお役人様が何人もいますが、1年のうちにコンサートも、演劇も、展覧会も、一度も行かない人たちがほとんど。唯一の趣味は『家』と『乗り物』だったりします。それは持っている金と引き換えのレディメードの趣味だから。
そういう人たちの上に君臨する『まつりごとのひとたち』も、人間離れした顔になっているように私には見える。