こどものころから遺跡や廃墟にロマンを感じました。一方で、宇宙の運行や地学にも興味があった。
ケプラーの法則などにはワクワクした。その一方で、もっと古い時代の古代の人たちの宇宙観にもロマンを感じた。
ある意味で、私の頭の中は『古い時代の科学の知識』で出来上がっている。いや、むしろ、科学などはニュートンの時代で停まっていたほうが人類の為だったと思うぐらいだ。
同位元素のキュリー夫妻も、核エネルギーや核兵器を生むもとになったルーズベルト大統領への手紙に署名したアインシュタインもオッペンハイマーも、私はまったく尊敬していない。
ガリレオ、ケプラー、ニュートンにあこがれるあまり、あの時代の家に、あの時代の家具と調度品で住みたいと思っていた時期があった。ジョージ国王に献上された、地球の時間を示すばかりでなく、惑星の運行、月の動きまでを示す、巨大な『宇宙時計』に妙に感心した。なんとか、宇宙と機械に相似形を創り出そうとしてた苦心が、ひとつの哲学美とでもいうべきものを作っている。
私は個人的にはあの時代が西洋科学文明の一つのピークを作ったと考えている。現代のものは、悪いけれど『ガリ勉が生み出したもので、ロマンも天才もない』というのが私の印象だ。
我らの自転車は、そのちょっと後に生まれた。そこまでが、私にとって、科学と文明が幸福に共存できた時代のように見える。19世紀に入って、石炭を使いまくり、英国などでは大気汚染と健康被害がたいへんなものとなった。やがて、ガソリンエンジンが作られ、ドイツでモーターサイクルの元祖が作られ、自動車の元祖がドイツで作られ、その後、毒ガスが開発されドイツははじめて第一次世界大戦で大々的に使った。潜水艦が発明されるとドイツはUボートを大量に造り、WW1のあいだだけで5300そうもの船を撃沈した。5300もの船を海に沈めるというのは、どこくらいの海洋汚染なのか。さらにWW2では大陸間弾道ミサイルV2ロケットをドイツが発明し、世界最初のクルーズミサイルがドイツによって発明され、世界最初のステルス戦闘爆撃機ホルテンがナチスによって開発され、パンチカードで国民を管理するシステムがナチスによって開発され、テレビによるプロパガンダがナチスによって発明され、、、
おおよそ、人類の文明にとって、ろくでもない影響と脅威となるもののほとんどがドイツで発明されたというのは驚くべきことだ。ヨーロッパには『ドイツのアウトバーン+高速自動車』という文化と、『シトローエン2CVやモリスのトラヴェラーのような農村型小型自動車』という文化など、数種類があったが、ドイツがすべての多様性を蹴散らしたと言えると思う。アレックスがあるパーティーで『ドイツのクルマは多かれ少なかれ、ヒットラーの脳波を受け継いでおるようにワシには思える』と言っていたのはかなり的確な分析だろう。
さて、古代、科学は洪水を予測し、暦を作って農作物の作付けの目安をたて、薬品を作り、建築の技術をつくり、ある程度、文明の役に立ってきた。ところが、ある所から先、科学はどうも文明と人類の存在を脅かす側面もある恐ろしいものであることもわかって来た。
『科学者』、あるいは『理科系人間』は、どうも一枚岩ではなく、2つの陣営にいる2つのタイプの科学者や技術者がいることがいまではあきらかになっている。
いや、さらに正確に言えば、科学的技術と金儲け経済学が結びついたものは、ほんとうの科学ではない場合がほとんどだ。
現代に欠けているものは、『トータルな科学的見識』ではないのか?
うちの近くに年中、エンジン式の草刈り機で草を刈っている老人がいる。彼は自分が良いことをしていると信じて疑わない。その刈った草は袋に詰めて、燃えるゴミとして出されている。CO2がそこで排出される。刈る時にエンジンを回し、空気を汚し、CO2を出している。それによって小さい昆虫が住み家を失い、それを捕食するカマキリやクモなども激減した。また、下草は樹木の根の乾きをおさえ、適度な湿気を与えて樹木を守っている。その下草を刈る。
樹木は根を覆う下草が無くなって、いきおいが弱まり、そこへカマキリやクモがいなくなった一部の虫が大量に発生して葉を食い荒らす。
そこでまた、その老人『虫殺しの薬剤を噴霧する』。しかし、すべての植物は根の周りの微生物と共生している。畑にすみれを植えるのも、マメ科の草の根につく微生物が作物の生育に好影響を与えるからだ。
そこへ虫殺し薬剤を撒きまくって、土壌中の微生物を壊滅させる。それを数ねん繰り返していると、やがて、樹木は『にょろにょろ』のようになってくる。自然を壊すことしかやっていない。
こうしたトータルな科学的視点の欠如は、河川の工事でも、山の切り崩し開発でも、随所にみられる。
『速い自動車を作る』それはきわめて単純なベクトルで、ある意味,がり勉で作れるだろう。ただ、それが環境に及ぼす影響はどうなのか?その電池を廃棄する時の公害はどうするのか?
どうにも、ある種の科学技術はろくでもないというか、くだらないものに見える。人をむしろ不幸にする。
ここ2年ぐらい、世界のあちこちでずいぶん大きい地震や火山活動があった。私の持っている『地球のイメージは、表面を虹のような色がグルグル動き、ぷよぷよ揺らいでいる様子だ』。
あれと同じように大気は対流し、海水も対流し、地面ですら、大陸は移動している。地球は完全な球体ではない。遠心力で中心部分が外側に膨らんでいる。『ジオイド』と言いますが。
つまり、永遠に同じ悠久の大地などというのはない。
そこへ核発電を作る。いつ地震が来るかわからないところに都市を作る。火山も爆発する。そういうところで、どうやって文明を維持してゆくか?というところは、常に人類は考えていないといけない。
大昔、喜界カルデラの大爆発で,九州の縄文文化は終わりをつげ、兵庫のあたりまで、その火山灰まみれになって、多くの人たちが東へ、東北へ逃れた。
これが、もし現代に起こったら、どこへ人は逃げるのか?昔のように民族大移動は難しい時代だ。
これはインドネシアの大火山でも、地中海のアトランティスのモデルと言われるサントリニ島でも。日本の隣国の国境近くにある火山でも、メガ噴火を起こす可能性がある。
太古の時代は民族大移動をした。現代ならどうするのか?
東南海トラフ地震が起きたら、経済はほぼ、背骨をやられたような状況になるのではないか?その時、最先端の技術ほどダメージが大きい。津波で自動車やバイクが水没した時、戦前のモーターサイクルならバッテリーは6ボルトだから、感電とか発火はないだろう。燃える部品もほとんどない。それがハイブリッドや電気自動車だったら?水の中を歩いて近くへ寄るのも危険だろう。最近の自動車はプラスチックやビニール、ウレタンがたくさん使われているのでよく燃える。今回神戸でも燃えましたが。
ほんものの科学でない『商業経済と結びついた科学技術』は、毒饅頭のように、食べ続けて、経済成長し続けないといけない。
そのような科学技術のみの暴走と言っても良い進歩は、ガケに落ちるまで進むレミングの行進を思わせる。『2秒かからず、停止状態から100kmまでというような加速は何御役に立つのか?』むしろ、自爆事故、思わぬところでスピンしたり、人をはね飛ばすリスクがものすごく高まる。そんなものは社会の迷惑だ。
京都駅のガラスの落下の映像を見たが、危機一髪だった。日本の古い文学を読んでも、京都には過去に大地震が起きていることが読み取れる。そうした時、あのサイズのビルで、地震でガラスが雨あられと降ったら、中の人は無事ではすむまい。ヨーロッパではムッソリーニの建てたミラノ中央駅がバカバカしく大きくて無意味だとよく言われる。京都駅はそれをはるかに凌駕している。『そんな地震は想定外』なのだろうか? 都を大きい地震が襲って、、という話は古典文学によく出て来る。
現代の科学技術というのは、『役立たずだったもんじゅ』などの例を見るまでもなく、かなり危い橋を渡っているように見える。
ひとつ、じっくりと、持続可能な幸福のための土地を科学的に考えてみる時期ではないのか?