しばらく前の話になりますが、洪水に襲われたエリアの人たちの様子のドキュメンタリーをやっていた。その中でちょっと違和感を感じた部分があったのですが、それは親御さんが、まだ4歳か5歳のこどもに『ぬいぶるみを置いていこう、もう汚いよ。』と言っていたのでした。
こどもは『嫌だ。連れて行く』と言って泣いていた。母親が説得している『だって、もう汚れちゃってるし、ね、置いていこう』と繰り返し言っていた場面がテレビに出ていた。
私の目からするとまったく汚くない。泥の付いたところが2~3cm角で3か所ほどあるだけ。こどもがそれほど大切にしていて、やっと家で再会したぬいぐるみを置いて行けという。
番組のアンカーパーソンは『洪水はこどものこころにも大きな傷跡を残しています』と言っていたが、私には、それは違うだろうという感じがした。2~3か所の泥染みなら、まずは簡単にアルコールと水で汚れを落とし、クリーニング屋でぬいぐるみのクリーニングをやってくれるところに『きれいにしてもらおうね』と出せばよい話だ。
それがきれいにクリーニングをしてくれるところを探して、なんとかする。あるいは人形の専門家でやってくれるところを訪ね歩く。それで、何とか再生すれば、その人形は、転載を一緒にくぐった、かけがえのないこどもの相棒になるわけです。
これは、まったく同じなものを見つけてきて新品を渡すのとはわけが違う。
これは、はからずも『代わりの物は、金を出せばまた買える』と教育してしまっているのではないか?。
これはカメラとか乗り物をやっているひとはわかると思いますが、『同じモデル、同じ製品を、よりきれいなものを持ってきても、思い入れのある物の場合には、替わりの同じものでは、こころに響かない場合がある。
これは『人間だったらどうか?』。病気になったら、置いて行って、替わりの女性なり、男性を探して乗り換えますか?そんなことは許されない。
ピカソが良いことを言っている。
『犬が醜くなるのは、皮膚病になって毛が抜けたからではない。飼い主の愛が消えたからだ。』
英国だと人形やテディベアのたぐいは、ボロボロになっても手放さない。どこかが壊れたら修理の専門の人がいる。つぎを当てたり、足が左右で微妙に色が違っているテディベアはけっこうみかける。
これは、『最後まで見捨てない』ということで、これは人間でも機械でもそうあるべきだという思想が背景にあると思う。
じつは愛着のあるものを平然と取り換えることができる付き合い方というのは、日本も昔はなかったはずだ。『鋳掛屋』でも『ラオ屋』でも、時計の修理でも、そうした『修理する文化』のたまものだろう。
これはじつは、徐々に人間にも広げられてきていると思う。医療現場の人から聞いた話だが、医者に『もう平均寿命より生きたんだからいいじゃないですか』と患者が言われるのをけっこう目撃するという。
ぬいぐるみやおもちゃを与えるというのは、じつは人間とのかかわり方の基本を学ぶということでもあると、最近は思う。
こどもは『嫌だ。連れて行く』と言って泣いていた。母親が説得している『だって、もう汚れちゃってるし、ね、置いていこう』と繰り返し言っていた場面がテレビに出ていた。
私の目からするとまったく汚くない。泥の付いたところが2~3cm角で3か所ほどあるだけ。こどもがそれほど大切にしていて、やっと家で再会したぬいぐるみを置いて行けという。
番組のアンカーパーソンは『洪水はこどものこころにも大きな傷跡を残しています』と言っていたが、私には、それは違うだろうという感じがした。2~3か所の泥染みなら、まずは簡単にアルコールと水で汚れを落とし、クリーニング屋でぬいぐるみのクリーニングをやってくれるところに『きれいにしてもらおうね』と出せばよい話だ。
それがきれいにクリーニングをしてくれるところを探して、なんとかする。あるいは人形の専門家でやってくれるところを訪ね歩く。それで、何とか再生すれば、その人形は、転載を一緒にくぐった、かけがえのないこどもの相棒になるわけです。
これは、まったく同じなものを見つけてきて新品を渡すのとはわけが違う。
これは、はからずも『代わりの物は、金を出せばまた買える』と教育してしまっているのではないか?。
これはカメラとか乗り物をやっているひとはわかると思いますが、『同じモデル、同じ製品を、よりきれいなものを持ってきても、思い入れのある物の場合には、替わりの同じものでは、こころに響かない場合がある。
これは『人間だったらどうか?』。病気になったら、置いて行って、替わりの女性なり、男性を探して乗り換えますか?そんなことは許されない。
ピカソが良いことを言っている。
『犬が醜くなるのは、皮膚病になって毛が抜けたからではない。飼い主の愛が消えたからだ。』
英国だと人形やテディベアのたぐいは、ボロボロになっても手放さない。どこかが壊れたら修理の専門の人がいる。つぎを当てたり、足が左右で微妙に色が違っているテディベアはけっこうみかける。
これは、『最後まで見捨てない』ということで、これは人間でも機械でもそうあるべきだという思想が背景にあると思う。
じつは愛着のあるものを平然と取り換えることができる付き合い方というのは、日本も昔はなかったはずだ。『鋳掛屋』でも『ラオ屋』でも、時計の修理でも、そうした『修理する文化』のたまものだろう。
これはじつは、徐々に人間にも広げられてきていると思う。医療現場の人から聞いた話だが、医者に『もう平均寿命より生きたんだからいいじゃないですか』と患者が言われるのをけっこう目撃するという。
ぬいぐるみやおもちゃを与えるというのは、じつは人間とのかかわり方の基本を学ぶということでもあると、最近は思う。