『窓が壁みたいに詰まっていたら役に立たないだろう?茶碗の中に空洞がなかったら役に立たない。その何もないところが役に立っているんだが、いつしか、それだけじゃしかたがないんで、もうちょっとそこへ模様を付けてみたり、、感じの良いものを作ろうとかしているうちに、いつのまにか、きれいにその茶碗の外側が作れるって言うことの方が重要だと思われるようになっちゃったんだろうね。』
絵の師がそう言うことを言っていた。
この『何もない』ことは老子が言い始めたことだろうと思うが、詰まれば詰まるほど、息苦しくなってくるのはよくあることだ。
昔、女友達の母上が英国へ行くというので、どこがいいかと訊かれ、何か所かの推薦場所の一つにバースを入れておいたら、帰って来てからバースだけがピンとこなかったと言っておられた。
『バースって何があるの?』
と訊かれたのだが、そのとき、始めて失敗したと思った。
バースにはさしてみるものはない。そこは『貴族たちが来る入れ物』なので、いわばからっぽなのです。ローマンバスと彼らが集まっていたパンプルームがあるぐらい。
私の友人が、バースのパンプルームをさらに登って、坂の上の方の18世紀の屋敷を買って住んでいた。喧騒がなく、早朝の朝もやの中など、朝のしっとりとした空気の中で窓を開けると、『モーツアルトの時代にワープして目覚めた感じ』がした。観光客はそこまでは登ってこない。
『何かがある』のはミニマムで良い。いらないものがあるのはむしろ困る。邪魔なのです。
この、いらないものがある煩わしさは、ビデオデッキのあまりに多機能なもの、炊飯器のあまりにさまざまなモードのあるものが鬱陶しいのに似た感じがある。
私はヒルマン・ミンクスでクルマの運転を練習した世代なので、ダッシュボードの上のメーターはハンドルの前になく、中央部分にスピードメーターもまとめて置かれていた。つまり、昔は、メーターなど睨んで運転するものではなかった。
これは1968年頃、自転車のハンドルに取り付ける自転車ラジオが出て来た時、『なんだそれは!』と思った。自転車に乗っている時にラジオや音楽なんか聞かなくてよいと思った。
昔は、クルマの中で退屈した時、つまり渋滞した時などなどにカーステレオ(なんとレトロな言葉だ、笑)を鳴らした。1970年代、夏に渋滞すると、イライラ防止にボサノバとか、アルゼンチン・タンゴとか、スタンリー・ブラックとかをよくかけていた記憶がある。逆に言うと走っている時には音楽がなくとも退屈しない。
昨日、たまたま夏でイタリアから戻って来た友人と昼飯を食べたのだが、そのとき、自転車の色が黒というのは、町の中にその前で黒い自転車が栄えるような、良い質感の背景があってこそ可能だ、今の東京は黒だとかなり町の醜さに埋没する、という話をした。
つまり黒という『色を置かない』やりかたがシィクに見えるには、良い背景環境がいる。
いまの『やかましい色流行り』には、すべてをやかましくしてエスカレートする日本の現代の問題が反映されていると思う。気がつけば『来た~~~~ッ!』とかテレビでほぼすべてのCM登場者が絶叫している。そういう環境の感性的な貧しさに気がつかない。
沈黙を絶叫で埋め尽くし、空き地という空き地、山の斜面を崩しセメントか何かを置き、風景の手つかずのものを無くし、クルマに乗れば中も『武ルうす・LI-』のHI-TSU-GIのようにぴっちり。しかも外気温から何から、すべてがわかるメーターがたくさんある。ナビなどをはじめとして、機械が年中何かしゃべっている。
自転車に乗っても、どこのギアに入っているか見るインディケーターを睨み、スマホをハンドルにつけ行く場所を照らし合わせ、自転車ラジオならぬ、イヤフォーンで音楽を聴き、ハートレートモニターをチェック。
すべては『ビッチリ、一升瓶の中に砂を詰め、上から割り箸で突いているように詰まっている』(爆)
『何もなくて、自然が豊か』。それであれば、頭の上の空は宇宙の果てまで無限に高く。視覚の届く限りおおらかで豊かな、怖くない自然が広がっている。それを自転車で味わうのに詰まった機材は必要ない。
同じように、英国で古い大きい家へ行くと、家の周りはやはり自然であまり余計なものを置かない。
何もない中で、より大きく深いものの存在感を感じる生活が現代人には必要だろうと思う。