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Channel: 英国式自転車生活
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因果

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私のこどものころには、いまごろの夏祭りに『お化け屋敷』とか『見世物小屋』が立った。時代を感じます(笑)。学校の地区わけのグループの中でも、夏の夜のイベントがあって、『きもだめし』などというのが行われた。おっかない場所に何かを置いて帰って来るとか、置いてあるものを持って帰って来るとか、そういうきもだめしをした。

今考えてみると、おとなが監督していた記憶がない。父兄の誰かが『仲良くやれよ』というぐらいで、あとはグループの年長者にまかされた。

きもだめしの場所は、たいてい畑の隣の森の奥のHAKABAに行って帰って来るというようなものだった。だいたい当時の怪奇マンガのたぐいは、そういうところで学校の生徒がやっているところにホンモノが出るというようなストーリーだったので、低学年の生徒たちは一層ビビった(笑)。

手の込んだグループでは上級生が木の枝に、黒い布をひもでぶら下げて動くようにしたり、『教えないドッキリのしかけ』が2つや3つあった。

だいたい、そういう『天然の場所』のもののほうが、神社の境内のものより怖かった。それは闇が天然ですから。


なかにはまったく怖がらない者がいて、そういうものを信じていないというよりは、『人から聞いた話で、そういうものの存在を信じるということのないこども』だった気がする。つまり、『暗示にかかりやすい人』とそうでない人。


この『暗示』というものは、こどものうちから知らず知らずのうちに、社会から与えられているものではないか?とこのごろは考える。それは、英国と日本では、そういう『憑き物』であるとか、さまざまなぞぞっと来るものが違う。それは文化的なものの影響を受けていると思う。

タイのひとで、暑い時はHAKABAで昼寝をするという人がいた。ヨーロッパでも、教会には床にも壁にも、あっちこっちに埋められているわけで、そこへ『気持ちが落ち着く』と行く人がいる。コンサートも夜やる。みんな平気なのです。

ところが、ある種の場所はダメ。昔、北鎌倉から海の方へ降りるとき、近道を行こうとしたとき、英国人の彼女が、途中で歩くのをやめ、『引き返しましょう。この道は嫌な感じがする』と頑として動かず。またバス通りまで弾き返したことがあった。そんなことは初めてだったのだが、『とにかくこの道は嫌だ。良くない気配を感じる』と、あまりに真剣に言うので、私も彼女に従った。

ヨーロッパの人は『もの』よりも『土地』にそういうことを感じる人が多い。私も20代からあとは、英国と日本と半々に近かったので、なんとなく『土地に感じる人』になった気がする。

『頭で考えている意識の部分よりも深い、潜在意識のところに何となく感じる』とでもいうのだろうか。

この潜在意識の部分は実に不思議で、誰かの意識から、深い影響を受けることもある気がする。たとえば、この歳になって、『ああ、これは父がやりたいと常々思っていたことだ』と、ふと、わかる気がすることがある。しかし、記憶をたどってみても、父とそのような会話を交わした記憶はない。生きている時にテレパシーで焼きこまれたとしか思えない時がある(笑)。

その話をアレックスにしたことがある。『誰かの個性が焼きこまれるというようなことはあると思うか?』と。彼は『絶対それはある。ワシもこの歳になると、こころの奥底で誰か親しい人が言っていたことが、彼自身が私の中で話し始めるように感じることがある』と言っていた。洋の東西を問わず、ひとのこころの中にはそういう機能があるのではないかと思える。


父のSOU-GHIの時、私が初めて会う女性が参列していたのだが、どういうわけだか、電撃的に『ああ、このひと、父の好みの人だったんだな』とピカッときた。父は自分のそういう好みとかは私に一切話したことがない。後ろ暗いところがある関係ではなかったのだが、なぜ、そんなことがピンと来たのか?実に不思議だ。


その時、父の学生時代の時の担任が来ていて、『あなたのお父さんの夢は、ロバの背中に絵の道具を括り付け、旅をしながら絵を描いて歩くのが夢だった』というのを聞いてビックリした。そんな話も聞いたことはなかったが、私も実はロバではなく自転車でそれをやりたかった。

フランスでは『こどもが親の隠された部分の告白であることはよくあることだ』と言われる。

そう考えた時に、『自分はどうして、こういうものに惹かれたり、別のものに嫌悪感を持つのか?』と自己分析してゆくと、意外なところで焼きこまれているものを発見する。

自分の場合、それを解きほぐし、自分を自由にするのにずいぶん時間がかかった。知らず知らずのうちに集団意識のように、自分の中に焼きこまれているものがある。また、いつも『同じパターンで自分に失敗させるカサブタのような意識もある』。

50歳を超えたころ、自分の失敗には『ひとつのパターンがある』ことに気がついて、そのパターンを生み出す、こころの深いところにあるよからぬ種もわかるようになった。それは自分一人が作り出した種ではなく、学校や社会や華族や親戚に焼きこまれたものであることもある。


この不要な種を引っこ抜く決意は、集団の中にいるとなかなかつかないし、また原因もつかめない。

自分は海外生活で、そういうことに気がつくきっかけを得た。きっかえはあったが、その本当の意味は長年わからなかった。『もっと早く、20代の後半ぐらいで気がついていたら、人生はもっと楽にうまく行っただろうに』と思うことがある。

現代日本の若い人は、ちかごろ海外旅行すらも行かないそうである。それは自分の右手で右手を掴めないようなもので、一度は、集団意識の枠組みの外に出て、自分の『心の川底の小石を洗ってみる』のも意味深いことだと私は考える。


実体は水の上にあり、こころは水面のようなもの。『考える意識は水面を泳ぐ水鳥のようなもの』。その水面の下にあるさまざまなものに、人は突き動かされている。水面下の泥や粗大ごみをきれいにすることはきわめて重要なのだ。

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