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Channel: 英国式自転車生活
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その人と自転車

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昨日、都心を抜けて帰って来る時、夕食を途中で食べてきたのですが、その目指した食事の場所は、小さいながらも古い神社があり、ごちゃごちゃした脇道の奥に流行っている肉屋とかパン屋がある。

10分ほど立ち止まってストリートウォッチング。


75歳ぐらいの老人が、昭和の商店街によくある実用車を押していた。見通しのきくところへでると、おもむろにまたがって、ゆっくりと、滑るように走り去った。

昔、干潟でムツゴロウをとる人たちが、膝をのせる小さいそりのようなものに乗って移動しているのを見たが、その老人の実用車は、そういう風情があった。『生活の必需品』。長年、彼の仕事の移動を助けて来た体の一部。彼とは不可分の関係。

自動車と自転車の最大の差は、『自動車は箱』だから、誰が乗ってもある意味見た目の箱は同じなのです。良い箱を買ってしまえば、そこである意味一区切りつく。

誰が買おうが、ディトナはディトナ。DBSはDBS。蔵雲は蔵雲。

ところが、自転車はそういうわけには行かない。いままでRaleighのスーパーレントンを何台も見ましたが、持っている人によって、すべて別のものに見える。どれもノッティンガムで大量生産されていたから同じものに見えるはずなのだが、自転車は自動車と違って、乗り手がすべて出る。


先日、私がよく見に行くブログの方が、カメラが壊れて困っているようだったので、差し出がましいようだが、うちに余ってころがっているまだ使えそうなデジカメを1台進呈した。面識はまったくありません。ただ写している写真とそれにつけるタイトルから、お人柄は推測できました。ふとしたヒントから、その方の仕事先がわかったので、そちらへお送りした。勝手に送るので、驚かしてはいけないと電話をしてみたのですが、話す声を聴いて、『ああ、考えていた通りの人だった』とホッとしました。

不思議なもので、私は『その人は声に出る』と思っている。これは誤魔化しようがない。『うさんくさい人はうさんくさい声をしているし、独裁者は独裁者の声、ずるがしこい人はずるがしこい声をしている。

なにか他人に伝えようとするとき、ほとんどの場合声を出しているわけで、これは知らず知らずのうちにたいへん有力な判断材料になっていると思う。

ところがこのごろは、携帯電話の連絡でもテキストメールになって、声が消えている。話す方も声から、話す言葉、話の展開と論理、内容の深み、単語の選択で、その人の中身と人柄がでる。これがメールで済ませられるようになったというのは、良い人も悪い人も同じ平面上に置くことになったと言えるだろう。

人は話している限り、声を隠すことは出来ない。科学的実験で、ひとはうそをついている人の微妙な声のの変化を感じ取るという。声の具合、話す内容、論理、使う単語、すべてを感じているはずだ。

これがデジタルの仮想液晶画面世界になって、いくらでも誤魔化せるようになったようだ。私はその人の声を聞いて、話してみて、はじめて安心できる。メールだけだったら、会ってみたらどうしようもなく下卑た信用できない人の場合も充分ありえるだろう。

自動車は箱の中に入ってしまって、窓ガラスがスモークだったり、中に乗っている人がサングラスを掛けたりすると、かなり判断材料が薄まる。『自動車のメーカーと車種だけ』に近づきますから。

たぶん、ロードの人が、どこかのチームのウェアを着て、サングラスをかけて、ヘルメットをかぶるのは、『集団に埋没して、誰だかわからなくしよう』という潜在意識がそうさせているような気がする。


その意味で、『生活必需品の自転車と一体になっている,先に述べた実用車の老人』などは、集団に埋没することの真逆を行っている。私はそうした個性の百花繚乱こそが見たい自転車シーンなのだが。

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