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Channel: 英国式自転車生活
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新茶の季節

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お店で売っているお茶に『新茶』のシールが付いている。

むかし、この時期には、今から390年ほど前は徳川将軍が宇治へ使者を送って、茶壷に新茶を詰めさせることをやっていた。それは大名行列のように派手なものだったという。宇治採茶使と呼ばれた。

ちょうど、日本の自転車の元祖、陸舟車が作られたころ、奢侈禁止令がでて、このお茶壺行列も質素なものへ様変わりした。

お茶を壺に詰めたあとは、盗まれたり、毒を入れられたりしないように、見張りとボディガードが500人以上も茶壷についたという。

小学生の頃「ちゃつぼに追われて、とっぴんしゃん」という歌詞が謎で、猿蟹合戦のウスに手足が生えて走ってゆくように、茶壷の妖怪のようなものが人を追いかけて歩くのかと思った(爆)。

そうではない。江戸初期には、大名と言えどもこの行列に出くわしたら、下馬してやりすごすのが儀礼だった。しもじもの者たちは『は、はぁ~~~』と茶壷さまに平伏、土下座。

そんなことはまっぴらなので、『戸をピッシャン』としめて、息を殺していた。とっぴんしゃんではなく、もとは戸をぴっしゃんなのだ。

『抜けた~ら、どんどこしょ』。茶壷が通り抜けたらどんどこお祭り騒ぎだったのだろう。

その時代、この将軍用の茶壷に一番新茶が詰め込まれるまでは、茶葉一枚たりとも出荷することは許されなかった。

いまは、代引きで一日でねこがもってやってくる。昔のお茶壺道中は10日以上かかった。良い時代なのだが、現代日本人はあまりそのありがたさを大切にしている風ではない。


昔の人はあまりパッとしない『しろうとのDIYおやじが作ったような色の汚いお茶を飲んでいた』(笑)。それが今のような澄んだ翡翠のような黄色や黄緑に淹れられるようになったのは、永谷宗円という人が茶葉を蒸すことによって、あざやかな色に淹れられるようになったのを発見してから。


宗円が自分の茶畑から採った茶葉で、その新しい製法で作ったお茶をふるまわれた売茶翁がそれを絶賛して、彼はそれを啓蒙してひろめることに尽力した。宗円と売茶翁からひろがった輪は多くの文人たちにもひろまり、若冲のまわりの文人たちも煎茶の魅力にはまっていった。

売茶翁のことはいまさら説明は不要だろう。『元祖人生相談喫茶』みたいなことをやりはじめた僧侶で、『気に入らなかったらお代はけっこう』とのぼりをあげて路上で移動緑茶カフェをやっていた。


今でいえば、リヤカーの後ろに珈琲道具一式を積んで、『受験勉強をする意味がわからないなら、やらなくてもいいぞ、一度だけの人生、すきに全力で生きろ』みたいなことを、若者に諭しながら、すごく美味い珈琲を淹れ、飄々とどこかへ去って行くみたいな感じだったのだろう(爆)。


昔は、貴重で高価なお茶が、夏の暑さで傷むと、涼しいところを求めて、夜中、茶壷を抱えて屋根の上を歩いていて、『怪しいやつ』と町方が取り押さえに来たということもあったと記録されている(笑)。


今は空調があり、冷蔵庫もある。

私は早朝、ウグイスが鳴く中で日本茶を飲み、長崎の松翁軒のカステラを食べた。いや~~長生きしそうだ。江戸時代、カステラは上級武士のあいだでの贈り物や病気見舞いの滋養のためのものとしての利用が多かったらしい。現代の貨幣価値で1本、1万5千円ぐらいだったという。


今は1000円と数百円ですから、ずいぶんお手頃になったものだ。栄西さんは、お茶は背中に羽が生えてくるくらい身体によいと本に書いているし、ウグイスの声と、朝の良い気、カステラとお茶で無敵だ(笑)。


『千年も、萬年も、生きましょうぞ。』(爆)

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