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Channel: 英国式自転車生活
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重くなった衣服を捨てるように

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連休に入ってから、自転車の関連のパイプを曲げたり、荷台のチューブを曲げてキャリアを作ったり。こういう時に仕事をはかどらせておかないと、なかなか遅れが詰められない。

だいたい、職人仕事の人はあまり連休でどこかへ思いっ切り出かけるというタイプの人はいないように見える。淡々とやっている感じ。我々には『マイペースになれる時間が仕事上必要』なのだ。

『どっか行くの?』と電話をしたら、私の関係の職人さんたちも『出かけるとクルマが渋滞するしなぁ』と、みんな、淡々と自分の仕事場で仕事をしている。

連休はじめに35年超級の英国の友人のFU報が入った。まだ若いのだが。来週末には身内でMAI-SOUするが出席するか?と。30代なら即座に、間髪入れずに行っただろうが、うちの老母を残して、そう簡単に英国に舞い戻るわけには行かない。

不思議な透明感のある人で、彼女から攻撃的なものや怒り、皮肉、絶望、憂鬱というようなものはまったく感じたことがなかった。聖職者でもその意味で彼女ほどの人には会ったことがない。

英語圏では、そういう時、その人にまつわる思い出、回想をしたためて送り、オマージュとするならわしがある。私も送ったが、彼女が微笑むと『天上界の光が雲間から差してきたような気がしたものだ』というのをosmosis of light coming from the heavenと書いた。

世界的なところで、最先端の医療で、チームまで作って行ったのだが、助からなかった。最期はもういよいよいけないというときに、家族と親戚で彼女の好きだった讃美歌を歌ったという。それは最後まで『整合性のある人生』だろう。また、何かを朗読するにしても、エレミヤでもイザヤでも哀歌でも詩篇でもそういう締めくくりに読むにふさわしい一節は必ずある。

日本だとどうでしょう?病室で,チ~~ンとかOKYOを読んだら他の患者から縁起でもないからやめてくれと言われるのではないか? 江戸時代、SO-SHIKI-BUKKYOとしての発達がすすんだわけだが、そういう、芸術的な詩文は江戸時代には準備されなかった。

古い奈良のお寺などは古代インドの『精舎』同様BO-CHIを持っていない。古代インドでは、『はーKA-ば』に住むのは『ある種の苦行と同様に、修行として行われた』。自分のまわりの土地を、『タコが自分の足を食べるようにはーKA-ばにして、それを売って生活費や自動車の維持費にしたり、妻帯して世襲にするというのは、どうも私には納得が行かない。

私ぐらいの年齢になると、『年齢エントロピー』とでもいうべきことを考える。歳をとるとどんどん同じ世代の友人が減って行く。年上の世代はどんどんどころではないペースでいなくなる。いなくならないまでも活動終息期に入る人が多い。

山へ行ったり軽運動をして、あとは病院へかよって薬をもらって、あとはポヤポヤしている人がけっこうな比率でいる感じがする。なにか打ち込める趣味でも持てばよいのにと思う。

『会うは別れの始まり』と昔の人はよくぞ言ったと思う。会者定離は世の常。その中で、何を引き継ぎ、あるいは手渡し、次の世代につながってゆくのか?

夕方から山車のお囃子を聴きに出かけた。一種のミニマル・ミュージックで、果てしない繰り返しの中で、だんだんマントラのように陶酔の境地に入って行く。演奏する人たちは音楽を切らさないように、うまく交代を重ね、音楽は果てしなくつながって行く。若い世代というのはいつの時代でも希望なのだ。それはテレビや新聞、雑誌がいうような『紋切型の無内容な若い世代は希望』ではない。蓮が泥に染まらないように、何か自分が世間で付けて来た泥のない姿をこどもに見ることからはじまる。

こどもが自分の親よりじじばばのほうが好きなのは、じつは深い意味があると私は考えている。

湿っぽくなったものは重い。そういうものは脱いで置いて行くよりほかない。歳をとった人にはそういうスタンスが必要だと思う。

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