この日曜日はイースターでした。クリスマスをあれほど商業主義で覆いつくし、それでも足りずにハロウィンを商業化した日本で、イースターだけはなかなか商業主義で覆えない(笑)。また、親鸞聖人の誕生会でもある。
イースターが商業主義で覆われない理由は、イースターがキリスト教の本質にかかわっているからにほかならないでしょう。
SHIしてのちのよみがえりを信じるかどうか?ここがひとつの分岐点になる。この話題にはブログでは立ち入りません。
私は日曜日の、それもイースターの日にひとの自転車を製作したり、打ち合わせをしたり、部品を引き取りに行ったりしていた。まったく、ヨーロッパ的な感覚からしたら信じられない。そういう日にまた引き渡しの日程を訊ねるメールが来たりする。
どういうことかというと、日本には宗教も宗教的休日の概念も、そうした他人の精神生活もまったくおかまいなくなってきていると、私はみている。
休日というのは『会社に行かなくてよい日』。『自分が買い物に行ったり遊びに行く日』となっているように思える。
来週の日曜日は灌佛会ですが、そのために一切の家の雑用をしないでどこかのお寺へ行く人は少数派だろう。イースターも無く、灌佛会も無い、同じように神社の祭礼も関係ない人がほとんどだろう。むしろ神社の太鼓の音がうるさいとか、お寺の鐘の音がうるさいとか、そうした話はよく聞く。自分の権利意識がきわめて強くなってきていると思う。
さて、現代日本人は何を区切りに日々を暮らすのか?もはや、食材売り場をのぞいても季節感はない。愛でるべき自然も都会にはサクラのほかはあまりなくなってきている。
私がはじめて英国へ行ったころ、日曜日にはすべての店や場所が閉まっていた。開いているのは教会だけ。音も教会の鐘の音だけで、ラジオやステレオの音が店から流れてくることもなかった。
町の中心部の観光客が集まるエリアの間口2mぐらいのニューズ・スタンドと、観光客向けのティーショップ・カッパーケトルだけが開いていた。
昼頃になると、ごく一部のレストランが店を開けた。しかし、中で働いている人たちはエジプトの人やインド系の人たち。つまり金曜日を礼拝日にしている人たちやヒンドゥー教の人たちが日曜日の仕事を引き受けていた。
美術館、博物館も午後からしか開かない。
教会に行かない人は、午前中は自室にいるか、ほかの行かない人とモーニング・珈琲をしたり、あるいは自転車で町を出て、町の外の野原から教会の鐘を聴く。
私は思うのだが、『それがいかなる宗教であっても、宗教的な意識をもった荘厳な、あるいはきわめて精神的な静かな内省的な深さをもった儀式を知らずに大人になる人は、世界的な観点から見て、ほんとうのところ相手にされないのではないか?という気持ちが自分には強くある。