うちへよく来る若手が『R&Fさんの言うような生活はよくわかるのですが、現実にそういう具合に生きたくても、仕事がそういう生活をさせない場合もありますよね』と言っていた。
たしかにそうなのです。いまや、昔の文人のような生活をすることは極端に難しい。
しかし、そこから逆に世の中を観察すると、問題点がよく見える。たとえば、夕方6時には家に帰り、家族と一緒に食事をして、8時には晩酌をしながら本を読むとか、音楽を聴くとか、そして、何の不安もわずらいもなく夜眠る。
これは1950年代にはあたりまえのような生活だったと思いますが、現在、毎日6時に家へ帰りついて、ひと風呂浴びて、7時に食事などというのは、そうとう恵まれた人だろうと思う。
金曜日の夜10時半に私の作った自転車を通勤に使っている人から電話がかかってきました。『うちの会社はブラックなので、いま会社の玄関を出たところです』と言っていた。
別の自転車仲間は、現在の仕事が『休みを取りやすいので、このまま昇進せずに定年まで、この状況で居たい』と言っていた。ところが、会社は彼を昇進させて仕事におぼれさせたくて『今後のことに関する意向』を書いて出すように言われ戦々恐々としている(笑)。
みんな、ほとんど気がついていませんが、教育も社会も、じつは『会社の意向で出来上がっている』部分がすごく多い。『コンピューターへの習熟度を高める』とか『英語の日常会話力』などというのは、会社の要望で、そういう能力のある経済兵隊が欲しいからおぼれさせでしょう(笑)。
べつに学生や社員を幸福にさせるために、そうした能力を伸ばそうとしているわけではない。
黙っていると、会社が欲しいような戦力人間を量産するための教育になって行く。
ここ25~35年の『仕事をしている働き方の変化』が、『より幸福な人生を送るための変化には正直思えない』。たとえば、25年前のFAXの電話器を売っていた人や、北欧製の1920年代のスタイルの電話器を売っていた人、あるいは『車載のIDO』の電話器を売っていた人と、現在のスマホの販売や説明をしている人との労働のきつさと労働時間、給料を較べてみると面白いと思う。私の記憶では、絶対、夜の8時9時まで窓口業務などやっていなかった。
仲間で携帯電話の基地のメンテをやっているのがいるが、ずいぶん遅くまで働いている。デートの暇もないのか、そろそろ50なのにいまだに独身。そういう働き方の職場が増えたから少子高齢化したというのが私の観察だ。
自転車関係者も独り者が多いですね(爆)。これはたぶん、生活に余裕がないのだ。私も含めてですが、驚くほど安い金で長時間働かされている。
私が高校生の頃、古本屋の親爺はのんびりしていて、本を読みながら店番。たまに市に買い付けに行き、実用車の後ろのダボ箱に本をたくさん仕入れて帰って来るのをよくみかけた。店の中をネコが歩いていたりして、それはのどかだった。いまは、そうでもないようだ。店の本を読んでいる暇などありはしない。『いらっしゃいませ、こんにちは~』と30秒ごとに繰り返し、本の3方向の汚れを機械カットして落とし、紙の微細粉末を吸い込み、レジを打ち、チラシを袋の中に入れ、『お売りになる本があれば、ぜひお知らせください』と声をかけ。そういえば、1960~1970~1980年代、どのくらい古本屋へ行ったかわからないが『処分される本があれば、、、』などと言われたことは一度もない。
会社が『こういう人がいたら便利だな』と考えるような人が作られる(爆)。
『英語で論争したり、英語で専門分野の会話が出来る』というのでなく『英語の日常会話』というのがミソだ(爆)。マルチン・ルターとジョン・ウェズレーの魔女に対する見解の違いはどういうことか?というのを英語で討論するちからなどは要求されない(笑)。
『あのベーゼンドルファーの調律は高音側がなっていない。伸びが悪い響きだ』を英語で言えなくても良い。『この自転車の車輪は、うしろのフリー側のスポーク張力が弱いね。しかもずいぶん振れてる』を英語で言うにはどうしたらよいのか?『英語の日常会話』とは何か?そういう日本語を使う人は『英語がからっきしダメな人』だと考えて間違いがない。
それにもかかわらず、英語が出来れば就職に有利らしい、とか、さまざまな『こういう人がいたら便利だろうな』と会社が思う人に近づこうと必死に資格を勉強する。あるいは入試もそう言うことだ。試験勉強もそうだ。
それは、必ずしも、その人を幸福にする勉強ではない。一方で、人生が豊かになる勉強や学問というのも確実に存在する。
つまり、『コップのへりに小さいフィギュアがとまってたら面白いだろうな』とコップのフチ子がいるように、『こういう企業兵隊が社員でいたら、うちの会社も業績アップだな』と、社長や重役が思うような人に自分をあてはめて行く人がいるわけだ(笑)。
『会社の縁男』(爆)。
そうした、企業のための人生で、滅私奉公をやってきて、定年のころには息も絶え絶え、退職して2年ぐらいでNAKUなる人をずいぶんたくさんみた。たぶん、定年後に使う『自分の生命力が残っていない』。また、『そこから自分の人生を生きようとしても、もう残された時間も、それを可能にする生活習慣も人脈もない人が多い』と思う。
そういう『ギアボックス社会』の外で生活するすべを若いうちにつかんだほうが、幸福度が高い人生になるのではないか?その意味で、私は「ギアボックス化していない、ユルイ社会の方が幸福度が高いと考える。ギアボックスに入れば飢えることはないだろう。1年に2~3回長い旅行もできるかもしれない。それで終わりなのだろうか?そのために一生の大半を堪えて生きるのだろうか?
まわりをみると、『好きこそものの上手なれ』で、好きなことを徹底してやっている人は意外と一生なんとか食べられるようである。
『こういう人がいたら便利だな』と思われる人にならない工夫が、じつはかなり重要な気がする。