もう何年も感じていたことですが、『クリスマスにクリスマスを感じない』。『正月に正月を感じない』。
クリスマスは、ヨーロッパの厳かな雰囲気とお祝い気分のまじった風情を知るものには、日本の『セール』のようなクリスマスは不愉快極まりない。
実質的にクリスマスは、下地になったケルト文化などの『冬至のお祭り』をヴァチカンがキリスト教のお祭りにしただけで、本来は冬至を過ぎて、太陽の力が増してくるという『太陽復活の、一年の始まり』なわけです。極東アジアでも、かつては冬至を一年の始まり、正月としているところが少なくなかった。
これが一年の始まりだから、英国ではクリスマスの日にエリザベス女王陛下のスピーチがある。
さて、日本での大晦日。長年、大晦日から元旦の真夜中に自転車で『峰走り初詣』をするのを続けていましたが、来年はもうやめようと決めた。
ここ、10年ぐらいでずいぶん雰囲気が変わった。境内にはイカだとかさまざまな食べ物を焼く匂いが充満している。それが石焼きいもであるとか焼き栗であるとか、あるいは酒かすとかうどんの匂いならよいのですが、鶏を焼く匂い、イカを焼く匂い、牛肉を焼く匂い、豚肉のソーセージを焼く匂い、バターの匂い、などおおよそ神社仏閣とはミスマッチなものを感じる。
そこにラジオや音楽がけたたましく鳴り、普段はお寺や神社に来ない人たちが、ビールを片手に奇声を発し、投げ捨てられたビール缶からこぼれたビールが、また地面で悪臭を放っている。
NHKのゆく年くる年も、年々薄まって来ていて、名刹の大晦日風景が映し出され終わるとすぐ、まったく気分ぶち壊しな番組へとつながってゆく。『味わい深く、新年を迎える』という演出はそこにはない。
昔からやっているから『ゆく年くる年』をやり、その後は、人気があるタレントを連れて来てヴァラエティ番組化させれば、現代に脱皮させたと安直に考えているのだろう。
小学校、中学校、高校生の前半まで、私は正月に東京にいませんでした。だいたい長野にいてスキーをやっていた。山荘の中で『ゆく年くる年』はじつに味わいがあった。名刹の梵鐘がこういう山の中で聴けるというのはスゴイことだと思った。
なので、日本でも英国でも、私はけたたましい騒ぎの新年というのは人生の大半で無縁だった。
なにか、それに替わるものはないかな?と考えていて、昨晩は自転車ですぐのお寺の冬至の星供養の祭りに行ってみた。良いんですねこれが。
大晦日、正月の雑踏も喧噪もない。『ほんとうにお参りしたい人だけが来ている』。騒ぎたいひとやビールを飲んで奇声をあげたい人が来ることは考えられないでしょう。1時間静かに坐るわけですから。
夜の、屋台が一軒も出ていない中での読経。平安時代の御本尊に鎌倉時代の本殿。法要のあとは『年越しうどん』と『般若湯』(酒のこと)が出て、参加者全員にふるまわれた。『年越しうどん』なのです。実質の新年。この日本酒もうどんも正統を感じさせる、けっこうなものでした。
これで年末ぎりぎりにさまざまなお札を返しに行き、新しいお札に入れ替え、初詣は歩いて行ける地元の神社で良いかなと思う。