みんな世代交代の時期。親戚のところへ今日行ったところ、行き来のある親戚はいまのところ私だけだという。あとは生きていても音信不通。残っていてもたいした人数ではない。私の方とは微妙にネットワークが違う。
最近は『無縁社会』とか言う言葉があるようですが、親戚間、一族間の結びつきや結束も弱まっている。
ひとつには『まめに連絡を取り合う親族家族主義、というかそういうものがなくなっているのだと思う』。自転車関係の仲間で花屋がいるのですが、やはり最近はSO-GHIの関係も出来るだけ小さく、家族数人でと言うのが増えているそうだ。
そうした場所での親戚が顔を合わせる機会も減っているのだろう。
英国などでは、『新聞はしぼー記事から読み始めるのが正しい』と言われるぐらいだ(笑)。
「Oh dear! サー・ラルフがMI-MAかった。Poor chap.ベンソン、白いシャツにアイロンをかけておいてくれ。それと、ロイスにワックスをかけて、空気圧を見ておいてくれ。午後の予定はすべてキャンセルだ。」
「Yes, my lord。」
ミス・マープルなども、ドラマの中では、よくしぼー記事から読み始めている。
そういう小さい記事を新聞に出す人も減った。見かけません。昔はそれを発見して、知り合いに知らせたり、それに突き動かされて、すべてのことに最優先で別れに向かうということがあった。最近は『ふ~~~ん』で、徹頭徹尾『ひ・と・ご・と』なのではないか?自分がしななきゃいいやみたいな。
人と人との縁が弱まっている。
これは最後も同じなんだろう。一人白いセメントの天井を見て、3方向は白いカーテン。さまざまな機械に囲まれて、隣りのベッドの人のうめき声や、誤嚥を機械で吸い出す悲鳴の聞こえる部屋で終わって行く人が多いのだろう。
『そういうのは嫌だね』という話が今日は出た。ヒマラヤなどでは、いよいよ自分もアウトだ、と思うと、山へ登って大きい石の上で大の字になって寝ていると、やがて体温が下がって眠くなってそのまま終わりになるというのをやる人がいるらしい』。
今日行った親戚のところでは、最後のころはあまり意識がハッキリしていなかったので、苦痛もなく幸せだった。99歳でした。そのうちはみんな『セルフ』で、こどもたちがお経を読んでおしまいにした。
彼はこのあいだ一族のおおもとのところへ墓参に行ったという。
「行った?」
「もう30年ぐらい前かな。小川の流れているところの胡桃の木がたくさん生えている扇状地みたいな原でしょ。」
「そう。あそこのちょっと上に巨大な五輪の搭があるじゃない。あそこから上はもっと古い先祖なんだが、苗字が違うね。」
「あそこから城跡の石垣のところまでは全部うちの一族のHAかだよ。うちもそっちも三男坊が途中から名乗った俗名だから。三男だから川の近くの土地をもらい、川が氾濫するたびに屋敷の敷地が水浸しになったからその名前になった。次男のところには有名な井戸があった、だから、水が神秘的に湧くということで、力のみなもとの意味でうちの家紋になっている。ただ一族は四つ目結だから、お寺は四つ目結だ。」
彼のうちはある意味楽なのだ。お寺にHAかを持っていない。自分の山にみんな埋めている。
「あなたのとこは、お寺にHAかあるの?」
「そうなんだ。だから、むずかしいんだ。」
彼のところはある意味五〇〇年、八〇〇年前とたいして変わらない。自分の家の裏山などに埋めて、一族とともにいる感じにしたのだろう。えーたいくよーも何もない。何百年もほっぽらかしてあるんだから(笑)。
寺も檀家がみんな都会へ出て行ってしまって、追いかけようがない(笑)。たまに巨額の金額を印刷した寄付金要求を突然送りつけたりしたら、二度と連絡を取らない檀家も多いのではないか?
そういう山へ、東京から車を飛ばして、苔むした山の中の五輪塔の前でセルフでお経をあげて、また帰って来るんだから坊さんもあがったりだ(爆)。それで旅行で名刹の宿坊へ泊まりに行ったりしている。
まわりの知り合いでも無しゅーKYOの人の場合は、回KIも法事もないので、当の本人がいなくなったら完全に縁が切れる場合がほとんど。『連絡を取るきっかけがない』。
そういう場合は、砂浜に小さいビーズを落としたような感じで、すべての縁が消える。
しかし、今の日本、さまざまな意味で『帰るべきところ』というのがない世の中になってきている。
かつて、四国を自転車で廻った時、杖は自転車に乗っているとき危ないので持たなかった。同行した英国人の友人が、お坊さんの姿の人がお地蔵さんの持つような錫杖を持って、途中のお地蔵さんとか石仏などにもすべて合掌していたのを見て、
「あれは、本格だな。ああいう風にやるべきだな。杖もオレはああいうのがいいな。」
と言った。
出来れば白いセメントの天井と3方向のカーテンの中での最後は嫌だ。杖を突いて青空の下、眺めの良い所か、自転車をとめて景色を眺めながら、「ああ、疲れたかな、眠くなったな、休むかな」と道路のわきでおしまいになるのが理想だ(笑)。
縁あって、ネットオークションで壊れた錫杖を数千円で安く買った。割れたところなどを修理し、金物の歪みをとり、剥がれたり削れたりしたところに肉盛りして、人工漆でレストア。みごとにきれいになった。
じつは「もったいない」という意識、「寄進してもらった布などは、布として使い切ったと、つぎを当て、下着にして、まったく無駄にせず、使い終わったあとも雑巾など、雑巾も最後は壁土に混ぜて利用すると、再再再再利用して、使い尽くせ」と、アーナンダの話としてお経に書いてある。錫杖のようなものが、まだ治せるのに捨ててしまってよいはずがない。
さっそく周りの人に報告。
「それはR&Fさん、あまりにマニアックすぎて、ビットするライバルがいなかったのじゃないか?」
そうかもしれない。
「木遣りとか神社の神事でも錫杖使うじゃない。よろしくないものを祓うからこれはいいんだ。」
オジサンはすごく気に入っている(爆)。
どこかの山に登る時や山の上のお寺や神社へ行くときに持って行こうと思う。
最近は『無縁社会』とか言う言葉があるようですが、親戚間、一族間の結びつきや結束も弱まっている。
ひとつには『まめに連絡を取り合う親族家族主義、というかそういうものがなくなっているのだと思う』。自転車関係の仲間で花屋がいるのですが、やはり最近はSO-GHIの関係も出来るだけ小さく、家族数人でと言うのが増えているそうだ。
そうした場所での親戚が顔を合わせる機会も減っているのだろう。
英国などでは、『新聞はしぼー記事から読み始めるのが正しい』と言われるぐらいだ(笑)。
「Oh dear! サー・ラルフがMI-MAかった。Poor chap.ベンソン、白いシャツにアイロンをかけておいてくれ。それと、ロイスにワックスをかけて、空気圧を見ておいてくれ。午後の予定はすべてキャンセルだ。」
「Yes, my lord。」
ミス・マープルなども、ドラマの中では、よくしぼー記事から読み始めている。
そういう小さい記事を新聞に出す人も減った。見かけません。昔はそれを発見して、知り合いに知らせたり、それに突き動かされて、すべてのことに最優先で別れに向かうということがあった。最近は『ふ~~~ん』で、徹頭徹尾『ひ・と・ご・と』なのではないか?自分がしななきゃいいやみたいな。
人と人との縁が弱まっている。
これは最後も同じなんだろう。一人白いセメントの天井を見て、3方向は白いカーテン。さまざまな機械に囲まれて、隣りのベッドの人のうめき声や、誤嚥を機械で吸い出す悲鳴の聞こえる部屋で終わって行く人が多いのだろう。
『そういうのは嫌だね』という話が今日は出た。ヒマラヤなどでは、いよいよ自分もアウトだ、と思うと、山へ登って大きい石の上で大の字になって寝ていると、やがて体温が下がって眠くなってそのまま終わりになるというのをやる人がいるらしい』。
今日行った親戚のところでは、最後のころはあまり意識がハッキリしていなかったので、苦痛もなく幸せだった。99歳でした。そのうちはみんな『セルフ』で、こどもたちがお経を読んでおしまいにした。
彼はこのあいだ一族のおおもとのところへ墓参に行ったという。
「行った?」
「もう30年ぐらい前かな。小川の流れているところの胡桃の木がたくさん生えている扇状地みたいな原でしょ。」
「そう。あそこのちょっと上に巨大な五輪の搭があるじゃない。あそこから上はもっと古い先祖なんだが、苗字が違うね。」
「あそこから城跡の石垣のところまでは全部うちの一族のHAかだよ。うちもそっちも三男坊が途中から名乗った俗名だから。三男だから川の近くの土地をもらい、川が氾濫するたびに屋敷の敷地が水浸しになったからその名前になった。次男のところには有名な井戸があった、だから、水が神秘的に湧くということで、力のみなもとの意味でうちの家紋になっている。ただ一族は四つ目結だから、お寺は四つ目結だ。」
彼のうちはある意味楽なのだ。お寺にHAかを持っていない。自分の山にみんな埋めている。
「あなたのとこは、お寺にHAかあるの?」
「そうなんだ。だから、むずかしいんだ。」
彼のところはある意味五〇〇年、八〇〇年前とたいして変わらない。自分の家の裏山などに埋めて、一族とともにいる感じにしたのだろう。えーたいくよーも何もない。何百年もほっぽらかしてあるんだから(笑)。
寺も檀家がみんな都会へ出て行ってしまって、追いかけようがない(笑)。たまに巨額の金額を印刷した寄付金要求を突然送りつけたりしたら、二度と連絡を取らない檀家も多いのではないか?
そういう山へ、東京から車を飛ばして、苔むした山の中の五輪塔の前でセルフでお経をあげて、また帰って来るんだから坊さんもあがったりだ(爆)。それで旅行で名刹の宿坊へ泊まりに行ったりしている。
まわりの知り合いでも無しゅーKYOの人の場合は、回KIも法事もないので、当の本人がいなくなったら完全に縁が切れる場合がほとんど。『連絡を取るきっかけがない』。
そういう場合は、砂浜に小さいビーズを落としたような感じで、すべての縁が消える。
しかし、今の日本、さまざまな意味で『帰るべきところ』というのがない世の中になってきている。
かつて、四国を自転車で廻った時、杖は自転車に乗っているとき危ないので持たなかった。同行した英国人の友人が、お坊さんの姿の人がお地蔵さんの持つような錫杖を持って、途中のお地蔵さんとか石仏などにもすべて合掌していたのを見て、
「あれは、本格だな。ああいう風にやるべきだな。杖もオレはああいうのがいいな。」
と言った。
出来れば白いセメントの天井と3方向のカーテンの中での最後は嫌だ。杖を突いて青空の下、眺めの良い所か、自転車をとめて景色を眺めながら、「ああ、疲れたかな、眠くなったな、休むかな」と道路のわきでおしまいになるのが理想だ(笑)。
縁あって、ネットオークションで壊れた錫杖を数千円で安く買った。割れたところなどを修理し、金物の歪みをとり、剥がれたり削れたりしたところに肉盛りして、人工漆でレストア。みごとにきれいになった。
じつは「もったいない」という意識、「寄進してもらった布などは、布として使い切ったと、つぎを当て、下着にして、まったく無駄にせず、使い終わったあとも雑巾など、雑巾も最後は壁土に混ぜて利用すると、再再再再利用して、使い尽くせ」と、アーナンダの話としてお経に書いてある。錫杖のようなものが、まだ治せるのに捨ててしまってよいはずがない。
さっそく周りの人に報告。
「それはR&Fさん、あまりにマニアックすぎて、ビットするライバルがいなかったのじゃないか?」
そうかもしれない。
「木遣りとか神社の神事でも錫杖使うじゃない。よろしくないものを祓うからこれはいいんだ。」
オジサンはすごく気に入っている(爆)。
どこかの山に登る時や山の上のお寺や神社へ行くときに持って行こうと思う。