世界は舞台である、とはシェークスピアの言葉ですが、年々、この世の中は舞台であるという気分が強まってきています。
ある人は舞台へもうでなくなり、ある人は死んでしまって、舞台の裾にすらいない。
ある人と、ある都内の大通りのことを「人生大通り」と呼び習わしているのですが、それはマルセル・カルネの映画「天井桟敷のひとびと」の中に出てくる一言です。
1kmあるかないかの場所なのですが、そこはまるで舞台のようなところ。実に多くのドラマがあった。
昨日の電話、
「みえこが死んだの知ってる?」
「えっ、だってまだ40歳いくかいかないかじゃないのか?なんで?」
「5年ぐらい闘病生活だったらしい。私も連絡とってなかったんで。」
客死です。遠く離れた異国での死。私はあまり人の英語を褒めませんが、彼女は私の知る限り、もっとも英語が出来、かつ才気煥発だった日本人のひとりでした。だいたい、「英語使い」という言葉があるくらいで、英語が出来る以外はまるでそのほかの分野のことも、日本のことも知らない人がけっこういますが、そうでない人はじつに貴重です。彼女は絵も描き、木工もやり、日本の伝統的なことも実によく知っていました。
ひとが一人なくなるということは、ある個性で束ねられた数十年の経験と熟練、さらにそれがアマルガムになった精神が消滅すること。またそういう個性どうしがスパークを飛ばし、何かの会話なり何なりが生まれ、出会ったほかの精神にも変化が起こる。
人の死はそういう可能性の消滅でもある。
フランスでダリの資金的援護者として知られていたアンナ・ド・ノワイュは、会話の名手として有名でした。彼女と話していると、芸術家はみんな、通常の110%ぐらいの会話が出来たらしい。
その亡くなった友人も、会話の名手で、私は「センコ花火」と呼んでいましたが、彼女もその名前が気に入っていた。あのウイットとユーモアにとんだ個性がこの世の中からひとつ消えたというのはなんとも残念なことです。
その「人生大通り」に、改良型風力発電の特許を持っている老人がいました。「これは絶対いつか認められる」と、特許延長のたびごとにたいへんな無理をしていました。残念ながら、「コストがかかるので儲かりそうもない」とどこの会社からも断られていましたが、その方も数年前に亡くなった。
唯一の遺族の方も去年亡くなられたので、あの発明も、もう日の目を見ることが永久にないのかもしれません。今だったら、あちこちで尽きぬ話ができたでしょうが、残念なことです。
つい3~4年前まで、金曜日には中東の大使館連中がみんな夜ともなれば集まってがやがややっていましたが、ちょっと前の金曜日に通過したときは、一人もいなくなっていました。私にとって中東の人たちの本音が聞ける数少ない場所でした。
日本と言うステージを去って、別のステージに行ったひとも少なくない。
過去20年で、日本はずいぶんなだらかに坂を下った気がします。よくなってはいない。そして、今の政治状況を見ると、これから先10年で良くなるようにはあまり思えない。さらに悪くなるでしょう。
自分が老人になってまったく活動できなくなってから、そういう時代が来るのはじつに厭な気がします。
さて、どういう舞台の降り方になるのか。どういう降り方をしようと自転車にだけは乗っていたいと思います。
ある人は舞台へもうでなくなり、ある人は死んでしまって、舞台の裾にすらいない。
ある人と、ある都内の大通りのことを「人生大通り」と呼び習わしているのですが、それはマルセル・カルネの映画「天井桟敷のひとびと」の中に出てくる一言です。
1kmあるかないかの場所なのですが、そこはまるで舞台のようなところ。実に多くのドラマがあった。
昨日の電話、
「みえこが死んだの知ってる?」
「えっ、だってまだ40歳いくかいかないかじゃないのか?なんで?」
「5年ぐらい闘病生活だったらしい。私も連絡とってなかったんで。」
客死です。遠く離れた異国での死。私はあまり人の英語を褒めませんが、彼女は私の知る限り、もっとも英語が出来、かつ才気煥発だった日本人のひとりでした。だいたい、「英語使い」という言葉があるくらいで、英語が出来る以外はまるでそのほかの分野のことも、日本のことも知らない人がけっこういますが、そうでない人はじつに貴重です。彼女は絵も描き、木工もやり、日本の伝統的なことも実によく知っていました。
ひとが一人なくなるということは、ある個性で束ねられた数十年の経験と熟練、さらにそれがアマルガムになった精神が消滅すること。またそういう個性どうしがスパークを飛ばし、何かの会話なり何なりが生まれ、出会ったほかの精神にも変化が起こる。
人の死はそういう可能性の消滅でもある。
フランスでダリの資金的援護者として知られていたアンナ・ド・ノワイュは、会話の名手として有名でした。彼女と話していると、芸術家はみんな、通常の110%ぐらいの会話が出来たらしい。
その亡くなった友人も、会話の名手で、私は「センコ花火」と呼んでいましたが、彼女もその名前が気に入っていた。あのウイットとユーモアにとんだ個性がこの世の中からひとつ消えたというのはなんとも残念なことです。
その「人生大通り」に、改良型風力発電の特許を持っている老人がいました。「これは絶対いつか認められる」と、特許延長のたびごとにたいへんな無理をしていました。残念ながら、「コストがかかるので儲かりそうもない」とどこの会社からも断られていましたが、その方も数年前に亡くなった。
唯一の遺族の方も去年亡くなられたので、あの発明も、もう日の目を見ることが永久にないのかもしれません。今だったら、あちこちで尽きぬ話ができたでしょうが、残念なことです。
つい3~4年前まで、金曜日には中東の大使館連中がみんな夜ともなれば集まってがやがややっていましたが、ちょっと前の金曜日に通過したときは、一人もいなくなっていました。私にとって中東の人たちの本音が聞ける数少ない場所でした。
日本と言うステージを去って、別のステージに行ったひとも少なくない。
過去20年で、日本はずいぶんなだらかに坂を下った気がします。よくなってはいない。そして、今の政治状況を見ると、これから先10年で良くなるようにはあまり思えない。さらに悪くなるでしょう。
自分が老人になってまったく活動できなくなってから、そういう時代が来るのはじつに厭な気がします。
さて、どういう舞台の降り方になるのか。どういう降り方をしようと自転車にだけは乗っていたいと思います。