これは私の奇妙な習慣なのですが、入浴しながら本を読む、というのがあります。アルキメデスが入浴中に科学法則にひらめいて風呂から飛び出して、そのまま「ユーレカ、ユーレカ」と叫んで街中を走り回った話はヨーロッパでは有名。ちなみに日本の雑誌「ユリイカ」とは「ユーレカ」のことです。
それはともかく、リラックスするせいか、血の巡りのせいか、入浴中は読めない本も読めます。
そのアルキメデス、古代世界ではレオナルド・ダ・ヴィンチのように尊敬されていました。アルキメデスの法則のほかにも、鏡で凹面鏡を作って敵の軍船の帆に火をつけたり、キケロの記録によると、彼は地球、月、惑星が別々の速さで動く機械仕掛けの天球儀を作ったと記録されています。
アルキメデスはローマ軍によって町が攻め落とされた時、一心不乱に研究に没頭しており、兵士に「もうちょっと待ってくれ」と言って殺害されたと言われています。その時のローマの将軍は、その天球儀のみを戦利品として持ち帰り、キケロはそれを見たらしい。彼はたいそうアルキメデスを尊敬し、のちにその墓を探しに行っています。「人間の限界を超えた才能を与えられたる者」という表現をキケロはしている。
アルキメデスは紀元前200年より前の話ですから、誰もがそんなことはキケロの捏造か誇張だろうと、2千年以上も考えられていました。ところが、1901年、アンティキテイラの沈没船から発見された奇妙な朽ち果てたブロンズの塊が、博物館の館長の目に留まり、「これは古代の時計ではないか?」と世界を騒然とさせたのでした。
ところがこれは時計ではなかった。もっとすごいもの、地球を回る月の軌道面が変化する「9年周期」まで組み込まれた精密な天体運行儀で、月食、日食も計算できる古代のコンピューターだったのです。
私がそれを知ったとき、即座に思ったのは大英博物館にある、ニュートンの時代に作られた「宇宙時計」でした。ヨーロッパの機械というものの原点には、私はそういう「科学精神」を感じるのです。
それが庶民的レベルに降りてきても、「ムーンフェイス」のグランド・ファーザーズ・クロックになる。
それは「現世利益的な技術」では決してないのです。そういう「宇宙の科学法則を眼に見えるかたちで持ち歩ける」ということで複雑な時計が王侯貴族に好まれる。
これは日本における思想背景とはかなり違う気がするのです。日本はもっと実利的、功利的な面でとらえている。
桃山時代、宣教師たちが信長にいくつかの贈り物を差し出した時、信長は時計に関しては「自分は壊してしまうだろうから」と受け取りませんでした。ヨーロッパ的な宇宙法則を眼に見えるカタチで示してくれる機械を所有すること、には興味を示さなかった。
これはヨーロッパの各国の王室が、絵画だけでなく、むしろレオナルド・ダ・ヴィンチやニュートンの手帳のほうをやっきになって収集していたことと考え合わせると興味深いと思います。
数学の世界や科学の世界では、「例外」をもうけず、最も簡単に答えがでているのが優れているとされています。これは法律の規則でも、科学の影響を受け、そうだと思います。ところが日本の基準や規制、法律は特例や例外だらけ。
そういうなかで、日本が機械をつくると、あるいは建築をつくると、「最も簡単に答えがでていない」感じがするのです。
銀座あたりで古いビルが壊されたりしたあと、その一枚向こうのビルの裏側が見えることがありますが、クーラーからガスの関係から、電気の関係、ありとあらゆるものが巨大なミミズのように外をのたうっていたりします。電気もガスも給排水も、空調も、日本では「実利・功利第一」で、安く作れて、壊れず使い物になればいい、という感じが透けて見える。
ヨーロッパでは時計を作るようにカメラをつくる。世界最古のカメラメーカーだったフォクトレンダーのジヤバラ・カメラの開閉装置の簡単さと軽量さ、その絶妙な構造には「よくぞ考えた」とニヤニヤしてきます。私はそのあたりのデザインの「天才的ひらめき」ではドイツのZEISSよりオーストリアのフォクトレンダーのほうが上だと思う。そういえばポルシェ博士もオーストリアの人です。
それが日本は、シャッターとシャッターボタンを電気のスイッチとコードにしてしまえば、熟練の職人も、凝った設計も、必要なく、安く大量生産ができて儲かる、、、となる。「実利と功利」の感じがする。
同じように安いクオーツの時計も同じ発想でやりはじめる。複雑なカラクリ時計も、電気スイッチとモーターとプラスチック、CPUで済ます。時間が合えばよい。
これは自動車でも、停止するたびに自動的に電動でローへ戻る自転車用内装変速器でも、底辺に流れる潮流は同じなのではないか?科学と言うより「実利技術」。
アメリカでも、科学は「功利的」「実利的」な扱いで、ある意味日本の同類と言う気がします。
私はあれほど宇宙工学が発達したアメリカで、自動車がヨーロッパのように抽象的に「理想主義的でない」のは興味深いと思う。
そういうなかで、原子力発電は原子爆弾とともにアメリカで生み出されました。1950年代から1970年代までのアメリカには、今から見ると「驚くほどの実利科学技術万能主義」が満ち溢れているのに奇妙な感じがします。なにしろ、オリジナルのバットマンは「原子力カー」に乗っていましたから。
同時代の英国のヒーロー、サイモン・テンプラー、通称セイントはボルボのクーペに乗っていた。
先日、太陽嵐の話を書きましたが、ニュートンの最新号(8月号)に、太陽のフレアが通常の100倍のものが起こるのは800年に一度、1000倍のものは5000年に一度の確立で起こる、と京都大学の柴田教授が、NASAの観測データから見積もった、と言う記事が出ています。
そうなると、先日書いた、「キャリントン事象」などとは比較にならない、カナダであった大停電などとは規模の違うものが起こる可能性が常にある、ということになります。
なにしろ、電源を入れずに静電誘導で通信ができたぐらいのキャリントン事象が、そうした巨大フレアのなかに数えられていないのです。「450年前まで調べられていますが、スーパーフレアの痕跡は見つかっていません」と記事にありましたから。
「ただ、大規模な停電や通信障害、飛行中の飛行機内での被ばくなどの被害がおきるおそれがあります」との柴田教授の談話です。しかし、これは「予想が悠長すぎはしないか?」
私は大きい疑問があるのです。いったいその時、原発はどうなるのですか?大規模な停電で電力がなくなり、カナダのように変圧器が壊されるほどの静電誘導が起こって、しかも技術者のあいだ、政府との通信、自衛隊などとの連絡網がすべてそうした太陽嵐で不通になれば、それは原子炉があちこちで暴走して、爆発するでしょう。
「電力が欲しいから原発」それは、あまりに短絡過ぎる、宇宙の科学法則からはるかに離れた、「現世利益的な功利的な、誤った理科的技術礼賛」に思えてなりません。
現代人が及びもしない天体運行儀をつくり、それでいて、自然のままに畑を作り、魚を捕り、葡萄酒を飲みつつ、哲学談義とホメロスの詩に耳傾けていた古代ギリシャの人生観に、うらやましいものを感じます。
左はCTによって見えたものをもとに作った復元。右は海底から発見されたままの状態。