サイクリング・プラスをめくっていました。まあ、このタイトルをパクったところもあるようですが、むかし、ヒラリーが編集長をやっていた頃はツーリングの記事もあり、歴史的な記事もあり、ドーピング不正の追及記事もあり、自転車趣味がまんべんなくおさえられていた。ヒラリーは陶磁器に眼が利き、実にいい壺をたくさんアリババのように家にため込んでいた。つまり、美術的な眼も持っている編集長でした。
今は同じようなロードレーサーが並び、その1年落ち2年落ちのモデルを安売りするショップのSALE広告ばかりの、『束ねた広告』のようになっている。昔の面影はない。
いろいろと考えるところがある。長年ウーゴは広告には必ずカンパの部品を付けた車両を出していました。ところがこの広告は日本製が付いていた。ホイールはピニンファリーナとありますが、数年前からピニンファリーナはインドの財閥マヒンドラの会社でしょう。つまり、イタリアのフラグシップのレーサーを買っても、部品は日本製、台湾製が入って、ホイールはインドの財閥のものだということだ。これがグローバリズム。
雑誌にたくさんレーサーが載っていても、その部品構成がほとんど似たり寄ったりなので、何台見ても変り映えがしない。
ようするに、ロードレーサー以外に選択肢がなくなって、そういうものをやりたくない人は自転車趣味に入ってこない。そして趣味人口が減り、やっている人たちは非常に『偏心の人たちばかりになる』。日本でもヨーロッパのツールやジロは一般の新聞やテレビでやらなくなったわけですが、それは、そういうものが『一般の人たちの興味を引くものでなくなった』と言うことがあると思う。
見ると、あきらかにオーヴァーウェイトの100kg級とお見受けされる人がインプレ記事をやっていたりする。一般的に100kgを超えた体重の人が乗っても平気な自転車は、ごく一部の「大重量対応車」かオーダーメイドのもので、一般にはありません。日本でも数車種しかない。メーカーの説明書には書いてありますが、小さく書いてあるだけなので、みんな読まない。
しかし、フランク・パターソンの末裔とは思えない。石垣と石畳の道を細いレーサーで走って何が楽しいのか?
荷物も積めない自転車でサドルから伸ばしたところへむりやり荷物を積み。見ると多くの人が『着たきりスズメ』で着替えも持っていない。
スズメだって水浴びをして、砂浴びをして、着替えのないのを補っている。
それで、パブに入るのか?私がいたら文句を言うだろう。『いくら銀のコーティングをしたウエアでも、何百CCも汗をかいて、それを蒸発させたような身体で、飲み食いする場所へ入って来るな。ヘルメットの下の髪の毛と頭皮は銀処理されていないだろう。シャワーを浴びて着替えてから入れ』。
悪いけれど、尊敬すべきスタイルがない。
『プロのように走る』と表紙にありますが、向うのプロはレース中は『自転車に乗ったまま放尿する』。降りてトイレに駆け込んで時間をロスするわけにゆかない。
たとえば、自動車で都市を走るのに、ノーメックスの耐火の上下つなぎを着て、スティッグのようなフルフェイスのヘルメットをかぶり、喫茶店へ入るのも、レストランへ入るのも、美術館へ入るのも、海辺で夕日を眺めるのも、峠の茶屋で連なる山を眺めるのもそのいでたちだったらジョークだろう。
トップギアのスティッグは『ジョーク』でやっているわけですから。ピーター・セラーズのほうの『カジノ・ロワイヤル』では007がヴェスパーをホテルから誘拐された時、ドアマンが『ボンドさん、ヴェスパーさんが連れ去られました』とやってくろと、『な~に。私のロータスF1に追いつけないものなどないのだ。』と白いつなぎを着て、ヘルメットをかぶり、F1マシーンでホテルの正面から走り去る場面がある。
本人たちは平気なのかもしれませんが、病院の中にも数日前いた。この季節、下りるやいなや汗が噴き出してきて、頭からもヘルメットからもポタポタ汗が落ちていた。しかも下着を着ないでいきなりレーパンでしょう。そういう格好で病室へ行こうとする人の神経が理解できない。
自転車を趣味にするというのが、そういう乗り方をするしかないという時代は実に不幸だ。