こどものころ『ウドを育てるためのむろ』を見たものです。暗いところでもやしのように育てられ、そこから換気口が出ていた。
後年、中東へ行って、彼の地のけーむ所は地下にあることを知った。ゴルフ場のような丘陵から換気口がたくさん出ている。地下から表に出るやいなや、何もないグラウンドで発見される。四方は鉄条網が何重にもめぐらされ、それらを超えても10mぐらいの壁がある。その壁の上の方に見張り台が付いて機銃がすえられている。どう考えても脱出不可能だろう。
「どういう人たちが入るのか?」と訊いたら「思想犯が少なくない」との答えだった。
今日のA新聞を読んでいたら『ドイツに難民拒む壁』と言う記事が出ていた。難民収容施設と住宅地を隔てる騒音防止壁の記事でしたが、そこに『自由に物を言えず、国外に出ることも許されなかった時代を思い出した』とある。それを東ドイツ時代のシュタージを引き合いに出して批判している論点だったが、ずいぶんおかどちがいな記事ではないのか。
シュタージは思想が西側かぶれした人たちを大量虐殺したのか?いまの世界には宗教的理由によって命をとられる国や人々が少なくない。そこが問題なのだ。
誰かが『カソリック教会はオーストラリアで、実際にまだ親が生きている英国のこどもたちを、君らは戦争孤児だといって英国から連れて行き、教会の建設などでこどもたちを労働させた。だから自分はカソリックをやめてプロテスタントになる』といったところで死罪になることはない。
英国国教会の信徒が『ジーザスは仏教でいうところの如来か菩薩さまなんじゃないかな?』と教会の牧師に言ったところで死刑になることはない。
これは臨済宗の檀家が曹洞宗の檀家になろうと、法華の信徒が天台宗の信徒になろうと、天神社の氏子が大国主命の崇拝者になろうと、命の危険はない。
ところが、世界には『信仰を捨てて、ほかの宗教の信者になったら死刑』というのが、国民の8割によって信じられている国は多い。それは、『国の法律』の上に立つ決まりだから、親がこどもを打ちKOROしても無罪になる場合が少なくない。そういう国が存在する。
英国では、いま、英国の法律に従わない、『彼らの宗教による法律の裁定』を要求する人が増えているのが大きな社会問題になっている。
最近日本でもよく見かけ、介護の要員をたくさん受け入れようとしている東南アジアの国でも、8割の人間が『棄教した者は死刑で当然』と考えていることがアンケートでわかっている。
ならば、どのようにその宗教に入るのか?父親がその宗教なら、キリスト教徒と結婚することもユダヤ教徒と結婚することも自由だ。ただし、こどもたちはすべてその父親の宗教に育てる義務が生じる。彼らは『右手の所有にかかる者』という表現をするが、仏教徒などは人間のうちに入らない。奴隷扱いなわけです。3大啓示宗教以外の信者は『動物以下』と繰り返し書かれている。
その父親譲りの宗教を捨てたら死刑で当然、それが彼らの常識だ。
自動車事故で亡くなった大亜名妃は、ゆくゆくは国教会の頂点に立つ王子の母親でありながら、そういう宗教の父親と再婚を計画していたところで、そうとう常識がなかったと私は考えている。
A新聞には「異質な文化への恐れが石の壁となって現れた」とカッコが付いて書かれているが、これを発言したのが誰かは特定できないように書かれている。
しかし、その「異質文化」は批判をすることも、言論の自由もない恐ろしい死刑のおどしで取り囲まれた社会ではないのか?恐れがあって当然だろう。
私がミュンヘンにいた1980年代、1990年代、そういう『宗教的に逸脱した者は死罪』という国を逃れ、ドイツに来る人がものすごく多く、またそういう人たちの多くが手厚い生活保護目当てでやって来るのが大きな問題になっていた。実際に英語が出来る連中と話してみたが「ドイツは生活レベルが高いと聞いてやってきたが、政府は充分な金をくれない。こんなはした金では人並みの生活が出来ない」と金の話しかしていない者がずいぶんいた。
そういう金銭感覚、職業観は私は宗教から来ていると考えている。彼らの宗教は『商人』だった宗祖がおこしたものなので、農民をものすごく軽蔑している印象がある。
彼らはイヌを軽蔑するが、彼らがよく農民を「イヌのように泥まみれで働く愚かな奴ら」と言っているのを耳にした。だから彼らは「敷物や宝石を右から左に動かすだけの仕事」を尊ぶ。油売りもそのうちのひとつだ。
日本もヨーロッパの失策を繰り返す前に、じっくりと問題の本質を見て、考えたほうが良い。浅草の浅草寺のまわりの石仏を壊していた者がいたが、油欲しさから罰せずに強制送還だったのではないか?一切の続報も新聞は伝えなかった。これは「うやむやにすることで、彼らの宗教法を日本の法律の上に置いてしまったことにほかならない」。
私はけっこう世界的に、とくにオーストラリアやヨーロッパでは、その宗教がはらむ本質的な問題点に気が付く人が増えている中で、日本にはボケたジャーナリストが多いのに驚くばかりだ。
後年、中東へ行って、彼の地のけーむ所は地下にあることを知った。ゴルフ場のような丘陵から換気口がたくさん出ている。地下から表に出るやいなや、何もないグラウンドで発見される。四方は鉄条網が何重にもめぐらされ、それらを超えても10mぐらいの壁がある。その壁の上の方に見張り台が付いて機銃がすえられている。どう考えても脱出不可能だろう。
「どういう人たちが入るのか?」と訊いたら「思想犯が少なくない」との答えだった。
今日のA新聞を読んでいたら『ドイツに難民拒む壁』と言う記事が出ていた。難民収容施設と住宅地を隔てる騒音防止壁の記事でしたが、そこに『自由に物を言えず、国外に出ることも許されなかった時代を思い出した』とある。それを東ドイツ時代のシュタージを引き合いに出して批判している論点だったが、ずいぶんおかどちがいな記事ではないのか。
シュタージは思想が西側かぶれした人たちを大量虐殺したのか?いまの世界には宗教的理由によって命をとられる国や人々が少なくない。そこが問題なのだ。
誰かが『カソリック教会はオーストラリアで、実際にまだ親が生きている英国のこどもたちを、君らは戦争孤児だといって英国から連れて行き、教会の建設などでこどもたちを労働させた。だから自分はカソリックをやめてプロテスタントになる』といったところで死罪になることはない。
英国国教会の信徒が『ジーザスは仏教でいうところの如来か菩薩さまなんじゃないかな?』と教会の牧師に言ったところで死刑になることはない。
これは臨済宗の檀家が曹洞宗の檀家になろうと、法華の信徒が天台宗の信徒になろうと、天神社の氏子が大国主命の崇拝者になろうと、命の危険はない。
ところが、世界には『信仰を捨てて、ほかの宗教の信者になったら死刑』というのが、国民の8割によって信じられている国は多い。それは、『国の法律』の上に立つ決まりだから、親がこどもを打ちKOROしても無罪になる場合が少なくない。そういう国が存在する。
英国では、いま、英国の法律に従わない、『彼らの宗教による法律の裁定』を要求する人が増えているのが大きな社会問題になっている。
最近日本でもよく見かけ、介護の要員をたくさん受け入れようとしている東南アジアの国でも、8割の人間が『棄教した者は死刑で当然』と考えていることがアンケートでわかっている。
ならば、どのようにその宗教に入るのか?父親がその宗教なら、キリスト教徒と結婚することもユダヤ教徒と結婚することも自由だ。ただし、こどもたちはすべてその父親の宗教に育てる義務が生じる。彼らは『右手の所有にかかる者』という表現をするが、仏教徒などは人間のうちに入らない。奴隷扱いなわけです。3大啓示宗教以外の信者は『動物以下』と繰り返し書かれている。
その父親譲りの宗教を捨てたら死刑で当然、それが彼らの常識だ。
自動車事故で亡くなった大亜名妃は、ゆくゆくは国教会の頂点に立つ王子の母親でありながら、そういう宗教の父親と再婚を計画していたところで、そうとう常識がなかったと私は考えている。
A新聞には「異質な文化への恐れが石の壁となって現れた」とカッコが付いて書かれているが、これを発言したのが誰かは特定できないように書かれている。
しかし、その「異質文化」は批判をすることも、言論の自由もない恐ろしい死刑のおどしで取り囲まれた社会ではないのか?恐れがあって当然だろう。
私がミュンヘンにいた1980年代、1990年代、そういう『宗教的に逸脱した者は死罪』という国を逃れ、ドイツに来る人がものすごく多く、またそういう人たちの多くが手厚い生活保護目当てでやって来るのが大きな問題になっていた。実際に英語が出来る連中と話してみたが「ドイツは生活レベルが高いと聞いてやってきたが、政府は充分な金をくれない。こんなはした金では人並みの生活が出来ない」と金の話しかしていない者がずいぶんいた。
そういう金銭感覚、職業観は私は宗教から来ていると考えている。彼らの宗教は『商人』だった宗祖がおこしたものなので、農民をものすごく軽蔑している印象がある。
彼らはイヌを軽蔑するが、彼らがよく農民を「イヌのように泥まみれで働く愚かな奴ら」と言っているのを耳にした。だから彼らは「敷物や宝石を右から左に動かすだけの仕事」を尊ぶ。油売りもそのうちのひとつだ。
日本もヨーロッパの失策を繰り返す前に、じっくりと問題の本質を見て、考えたほうが良い。浅草の浅草寺のまわりの石仏を壊していた者がいたが、油欲しさから罰せずに強制送還だったのではないか?一切の続報も新聞は伝えなかった。これは「うやむやにすることで、彼らの宗教法を日本の法律の上に置いてしまったことにほかならない」。
私はけっこう世界的に、とくにオーストラリアやヨーロッパでは、その宗教がはらむ本質的な問題点に気が付く人が増えている中で、日本にはボケたジャーナリストが多いのに驚くばかりだ。