私は「連休中に遠出することをしない」人なので、毎年この時期はこのお祭りと生活しています。何よりも渋滞した中、自動車の中にいることが嫌だ。これは『故障したクルマの中に座っているのと同じぐらいむかむかする』。下手に渋滞に巻き込まれると、道を外れて「どんなに時間がかかろうと、距離が遠かろうと、走り続けていよう」とする奇妙な習性があるので、不経済でもある(笑)。
今年は400年ぶりぐらいに御神輿のルートが変更になりました。長年、神社を出た行列は正面の門の前から西を向き、出発となっていた。その時、正面から、出発の時に西風が吹くのが不思議だった。
今年はそのまま真っ直ぐに神社を出て、新しく出来た再開発の高層複合ビルの間を右に入って行くルートになっていた。
私はあの再開発で建てられたビルが大嫌いなので、そちらへは行きませんでした。建設中に大量の水を汲み出して槽にためていたので、あれほどの地下階のあるビルであれば、地下水の流れも変り、国宝のケヤキ並木の根に影響を出さないはずがないと思っていた。
『巨樹、巨木は根をいじるとすぐ枯れます』。
私の家の菩提寺の前に樹齢600年ほどの杉の木が、かつては列をなしていた。『クルマを乗り入れたい』ということで、本来の山門から道路を作ったところ、両側の巨樹がみんな枯れた。最後に一番奥の階段のところの両側の巨木だけが残っていた。
ところが、そこもアスファルトにして、左側に手水を作るという話になって、長老たちはみんな反対した。『大きい樹は根をさわったらいけねえずら』。みごとに長老たちの予言通りになって、玄関の輪切りの衝立になってしまいました。
現代の日本人はそういう『自分の一生の時間のスケールを超えたものへの畏敬を失いつつある』と私は考えている。源の武将たち、足利の武将たち、家康公は『何を思って欅を奉納したのか?』。
さて、今年ははじめて、ビルの3階のベランダから御神輿を『見物している人』を一人みかけた。
私は古い価値観の人間なので、『経本や刀、弓などの上をまたいで歩いてはいけない』という考えが徹底している。それは、本来の日本文化では当たり前のことであっただろう。四国ではお遍路の人たちがトイレへ行く時には輪袈裟などをすべて外してゆくのを見かけた。
ある街道沿いの老舗の会長が、『2階から神さまの御神輿を見下ろすなどということがあってはならない』と言っておられたのを思い出す。これから、高層マンションの上から爪先のまえに御神輿を踏んで見物するのだろうか?
御神輿は人の手や頭より高いところにあるのが本来だ。海に揺られるように人の海の上に浮かび、人の手によって運ばれる。波は人の手であり、あたかも海に意思があるかのように、人の海も意思を持って流れる。私には、そういう象徴的な面も合わせて、お祭りは神秘的なものを感じさせる。