自転車に乗っているところから、ふと、ある単語が目に付いた。
「パリッシュ ホール」
私は爆笑してしまった。パリッシュというのは英国の行政区の最小単位で、英国の小さいvillageに行くと、その小さい村落だけで一つの教区になっているので、Parish Churchと書いてある。日本にそういう行政区分はない。
アメリカ人にパリッシュ・チャーチといってもほとんどの人がわからない。英国国教会特有の単語です。
「教区ホール」や「基督村集会所」ではいけないのか?私は日常では『大和言葉派』なので、違和感感じます。
「さんいんちほう」を「ウェストカントリー」、「たまがわ」を「ザ・リヴァー」、「ちゅうぶちほう」を「ミッドランド」、「はままつのモーターサイクル産業」を「日本のバーミンガムのモーターサイクル産業」と言うようになったら本物だ。『なんの?』かはわかりませんが(爆)。
「レクターンで指示されたニューテスタメントの一節の朗読を終えたらピューにお座りください」と言わないとしめしがつくまい(笑)。『外国からの神様』なんだから徹底するべき。「それで、日本の在来の宗教はすべて間違っている、日本在来の神様もいない、、」そういうわけですか?中東で伊須羅武の人にはそう言われた。『東洋の異教徒の人たちは何もわかっていない』と。中東産宗教(3宗教)は「他の教えはすべて間違っている」という立場をとるのが特徴的です。どうしても、そこから、発生した土地以外では『文化輸入型』になる。
だから伊須羅武ではものごころがつく幼児の時に、母国語が何語であろうと、荒武の言葉で暗唱させる。これは東京の四谷あたりへ行っても、まともにしゃべれない神父さんが「ブロークン・ジャパニーズ」でラテン語で行っていたりする。
英国国教会は英国国外では『アングリカン』になります。日本のアングリカンは『聖公会』と呼ばれる。カタカナでなく『聖公会』という漢字3文字の命名は昔の日本人のひとつの見識を示していると思う。
英国人がよく言うジョーク。
『世界中どこへ逃げようとも、チャーチ・オヴ・イングランドの手からは逃げられない。』(爆)
ホールの真ん中に英国英語で言うところ『ランタン』のようなものがあった。その形状が、ELYの大聖堂のオクタゴナル・タワーに似ている(右端の写真では見えていません)。見たのかもしれませんね。ただ、ELYの搭は65m以上あります。
ここの中央部もオクタゴナルです。
それで思い出しましたが、ELYの大聖堂にあるストーブは『サンダーバード3号のエンジン部分にそっくり』なのです(笑)。見分けがつかないほど(爆)。絶対サンダーバードの制作スタッフは見ていると思う。英国へ行く機会があればぜひ見に行ってください。イーリーは英国がまだ7つの王国に分かれていたころに建てられた。イーストアングリアの王女だったエセルデレーダは政略結婚で、無理やりノーサンブリア(だったと思う)の王と結婚させられた。彼女は『結婚はするが、処女は守る』と宣言していましたが(その相手の王ははるかに年下だった)、その王が大人になった時、関係を迫られ、Elyに逃げ帰り尼僧になった。その時にElyに大聖堂を造りはじめ、長らくElyは英国で2番目に裕福な教会でした(一番はアーサー王伝説とからんでいるグラストンベリー)。エセルデレーダのITAIはNAKUなったあと、17年経ってもまったく腐敗せず、それをもって聖女と考えられました。Elyにはステンドグラスのミュージアムがあって、良い作品を所蔵しています。Elyは「イーリーの島」と呼ばれていて、自転車でずっと走ってゆくと、地平線にかすかなふくらみと建物が見え、それが徐々に大きくなって見えてくるのは、実にドラマチックです。
英国では1970~1980年代に、ずいぶん信徒が減って弱小教会が閉鎖されました。それにともなって、1972年と1984年に英国では法律が改正されて、それまで「HAKA守」「西洋寺男」(チャーチワーデン)のやっていた仕事を地方自治体がかわりにやるようになった。つまり村のダンスのお祭りであるとか、結婚式のパーティーだとかの教会の仕事だった部分を自治体が引き受けて負担を軽減する政策です。多くのそうした場所は教会の手を離れた。インターネットで見てみるとわかりますが、今の英国の「パリッシュ・ホール」のほとんどは映画上映会、ダンスのつどい、演劇などの上演場所、高齢者のお茶のみ場などとして使われています。
何でそんなことを知っているかというと、80年代に、英国の友人とそういう場所で失業している人などの救済のための、180円ランチみたいなものをやっていたので。夜はダンスの愛好家の集会場所になり、エディンバラ・フェスティバルでも、『フリンジ』の連中はみんなそういう場所を使っていた。また、そういう場所では椅子の数の調整が自由にできるほうが有利なので、重ねられるプラスチックやアルミの椅子に入れ替えられた。あの時代、木製の椅子が大量に売りに出された。そういう椅子の処分を手伝ったりして、日本へずいぶんもってきた。そういうこともあって知っているわけです。